第五十三話

「すみません、挨拶もなく引っ越してしまって。父が……病気になってしまったので、親戚を頼って他県に移動したんです」

可畏は当たり障りのないように話を作った。自分たちがいきなりいなくなったことで、きっとたくさんの憶測が、この辺りの住人の噂の種になったことだろう。

近所の目は侮れないのだ。特に自分の家の周りで何かがあれば、被害が自分に及ばないかみんな神経質になる。可畏は、日記を探しに来るのは夜にすれば良かった、と思った。

「そうだったの。大変だったのね。あの時は急に可畏くんもお父さんも、未祥ちゃんも見えなくなったから、みんなとっても心配したのよ。たまたまガス管を回収に来たガス屋さんに会ったんで、覚羅さんはどうしたんですかって聞いたら、引っ越しましたっていうから驚いたの。一言くらい言ってくれれば良かったのに」

「申し訳ありません。父の様態が悪くて離れられなかったので……。ご迷惑をお掛けしました」

可畏が頭を下げると、杉下のおばさんは大げさに両手を振った。

「そんな、いいのよ。あたしは大したことしてないんだから。それでお父さんは元気になったの?」

「父は死にました」

簡潔に、可畏は伝えた。杉下夫人は大仰に目を見開いた。まずいことを聞いてしまったという表情を取り繕うと、ご愁傷様、というようなことをあわてて口にした。それから覚羅さんは町内の草取りにも率先して出てくれて、などと思い出話を始めそうになったので、可畏は言葉の合間になんとか口を挟んだ。

「杉下さん、すみません。僕たちは少し急いでるんです。ここには忘れ物を取りに来ただけなので」

可畏が言うと、ああそうね、とつぶやき杉下夫人はエプロンで手をぬぐった。それから内緒話でもするように、可畏に顔を近づけた。

「それじゃあ、これからどうするのかしら。もうこちらにもどってらっしゃらないの?」

今まで落ち着きのなかった杉下夫人の視線が、初めてしっかり可畏を捕らえた。そのことから、可畏は杉下のおばさんが外に出てきて、可畏に話しかけてきた理由が分かった。今後この家に誰が住むことになるのか、この人の興味はそこにこそ存在したのだ。可畏が一瞬口ごもると、杉下夫人はますます顔を近づけた。

「あの……こんにちは」

小さな声が自分の後ろから聞こえたので可畏は振り返った。未祥は可畏の後ろから横に移動すると、かしこまった様子で頭を下げる。前かがみだった杉下夫人は「あらー」と言って、今度は後ろにのけ反った。

「未祥ちゃんなの!? 大きくなったわねぇ。それに綺麗になって! 可畏くんも美男子だから、美形兄妹ね。お父さんのことは、お気の毒だったわね。今更だけど気を落とさないでね」

御しやすそうな若い女の子が現れたことで、杉下夫人はまた勢いづいた。曖昧な笑顔を返す未祥の肩を可畏が軽く抱き寄せる。ご近所には二人は兄妹だと云ってあるので、それは自然な仕草だった。

「杉下さん。色々ご心配をお掛けしましたが、この家には戻ってこないと思います。父からの相続の事で色々あったのですが、僕が大学を卒業したらこちらの家は売りに出すつもりです。またここには引っ越しの事で来る予定ですので、その時に挨拶に伺わせて頂きます」

可畏はとりあえずその場で思いついたことを伝えた。杉下夫人は可畏の整然とした説明に、急に大人しくなって何度も頷いた。

「そうなのね。おばさん、それを聞いてちょっと安心したわ。ほら、最近どこも物騒でしょ? 特に空き家が近くにあると、変ないたずらしようとしたりする人がいると困るから……。草が伸び放題でも見目が悪いし、出来れば早めに何とかしてもらいたいと思っていたのよ」

「分かりました。本当にすみません」

いいのよ、いいのよ、それじゃ元気でね、と言い残して杉下夫人はこの場を去った。可畏はホッとして軽く息を吐いた。

多聞だの、羅威だの、特殊な相手とのやり取りも神経を使うが、こういうご近所の付き合いの方が、ある意味酷く精神を消耗させるものだな、と可畏は思う。

杉下夫人にとっては、近所に使われていない家があるのは不安なのだろう。絶対的な天敵のいない人間の集団には、今ある自分たちの安泰≠守るために、出来る限り危険を排除したがる傾向がある。

いつも通りの日常≠つつがなく送る為に、杉下夫人に代表される普通の人々≠ヘ、問題のあるものが目の前にあるのが許せないのだ。安全で、健全で、規範を乱されることのない生活。それを求めるのは、人として当然の事だ。

必死で普通の生活を送ろうと努力している人々からすると、アクシデントで道を外れた者は即刻立ち去ってほしいというのが本心だろう。鬼や比丘尼など別世界の事は端(はな)から杉下夫人の頭の中には存在しない。

それでも人の道を外れて歩く自分たちの様な者にも、社会のルールは否応なく付いて回る。人であることは難しい。俺はこの先いち社会人として、この煩雑な世界を渡っていけるのだろうか……と可畏は思った。