第五十二話

「何も良くない。あんなことをされて、未祥がどれほど怖い思いをしたと思う? 手首は酷い傷になっているんだぞ」

「別に大したことじゃないだろ? すぐに治るよ。俺が比丘尼のせいでずっと味わってきた恐怖に比べれば、羽で撫でられたみたいなもんさ」

「どういうことだ? 十七年前両親が別れたことを言ってるのか? それは未祥とは全く関係ないだろう」

「そんなことはどうでもいい。要は俺があんたたちを心底気に食わないって事が重要なんだ。で? 日記は見つかったのか?」

可畏は苛立たしげに息を吐いた。羅威が苦労したことは分かるが、ずっと実の母親に可愛がられながら育ったのだ。母の調子が悪く、その面倒を見てこなければならなかったのは気の毒だと思うが、そのこと全てをこちらのせいにして、未祥に酷い仕打ちをするのはやりすぎだろう。

可畏にとってそれは、簡単に許せることではなかった。それでも電話口でいくら激昂しても、物事は前に進まない。可畏は自分を落ち着かせるために一度深呼吸した後、羅威の質問に答えた。

「ああ、見つけた」

「へぇ〜、よく見つけたね。言い忘れてたけど、日記は鏡台の引き出しに入ってる黒いノートだよ。速疾鬼しか読めないように結界がかけてあるはずだから、中身は白く見えるはずだ。兄さんが見つけたのは、鏡台から出したもの?」

弟の言い方は少し笑いを含んでいた。言い忘れていたなど嘘だ、と可畏は思った。羅威は可畏が探すのに苦労するよう、わざと日記のある場所を教えなかったのだ。でもいまここで怒りを露わにすると、余計羅威を喜ばせるだけだと思い、なるべく冷静な声で返事をした。

「確かに鏡台の引き出しで見つけた。色々探ったが、それらしいのが他に見つからなかったんだ。多分結界のせいで見えないんだろうと、光と話し合ってからお前に電話した」

可畏はあえて真実を語らなかった。志門に文字が読めることをわざわざ羅威に知らせる必要はない。日記に何が書かれているのか分からないが、羅威がこちらには読まれないと思っているほうが、都合がいい気がした。

「なかなか良い勘してるじゃん。それじゃあ、約束通り今から迎えに行くよ」

「わざわざ迎えに来てもらわなくても俺たちがそこまで行くよ。お前は昨日家まで帰ったんだろう? また長距離移動するのは疲れるし体に悪い。場所さえ教えてくれればそこまで行くから待っていろ」

「……」

羅威はなぜか、すぐに返事をしなかった。しばしの間、電話はシンとしていた。可畏は電波のせいで相手の声がよく聞こえないのかと思った。もしもし? と問いかけようとしたら羅威の声が聞こえてきた。

「……それってアンタお得意の媚ってやつ? 小っちゃい頃もそうだったよな。いつも俺に気を遣ってる態度とってさ。でもそういうのって、余計相手をみじめにさせるって分かってる?」

今度は可畏が黙る番だった。可畏としてはごく自然に相手の体の心配をしたつもりだった。媚をとっている気も一切ない。

「そんなつもりはない。気に障ったなら謝る」

「──もういいよ。要するにあんたは無自覚の嫌味野郎ってことさ。じゃあ、お言葉に甘えてこっちまで来ていただこうかな。車にナビはついてるか?」

「ついてるよ。データも最新版に入れ替えたばかりだ」

「上等。そしたらここの電話番号を入れれば住所が出てくると思う。そこに向かってくれ。もし出てこなかったらもう一度電話して」

「わかった。やってみる。到着時間を後から連絡しようか?」

「いや、いい。そこからなら大体三時間くらいだろう。じゃあ、会えるのを楽しみにしてるよ、お兄様」

可畏の挨拶を待たずに電話は切れた。可畏は羅威がそこからなら≠ニ言うのを聞いて、やはり羅威はこの家を知っていると確信した。父親の家も日記の隠し場所も知っていて、日記を手にすることが出来なかったのは、家の結界のせいで入れなかった可能性が高い。

そこから思い至るのは、羅威がそれらの事を知る機会が確実にあったということだ。羅威は父に会っている。亡くなる前の父に──。

いや、違う。と可畏は思い直した。父が死ぬことになった原因が、羅威にこそある……?

「どうした? 羅威は何か言ってたか?」

電話を持ったまま考え込んでいた可畏に、光が声をかけた。

「あ……ああ、あいつの家に行くことにしたよ。今からナビで検索をかける。どれくらい時間が掛かるかそれで分かるはずだから」

可畏は答えると、運転席側のドアに向かった。光は可畏の固い表情を不審に思い、理由を聞こうとした。でもその時、「……可畏くん?」という声が光の言葉を遮った。ドアの取っ手に手を掛けていた可畏は、声が聞こえた方を見た。

車のすぐ横に、エプロン姿の中年の女が立っていた。中性脂肪をかなり溜め込んだ体系をしたその女性は、せり出た腹の前で両手を組み、探るようにこちらを見ている。ジロジロと眺めまわすような視線に、四年前の可畏の記憶がよみがえった。

「杉下さん……、ですか?」

「あらま! やっぱり可畏くんなのね。このお家の方で珍しく人の声が聞こえたから、何かと思ったの。お久しぶりねぇ。突然引っ越しちゃったから、おばさん心配してたのよ」

杉下という中年女性は、気遣うような口ぶりで可畏に話していたが、視線はチラチラと色々な場所を見ていて落ち着きがなかった。可畏は四年前ここにいた時、杉下さんは近所の情報収集が大好きな、世話好きのおばさんだった事を思い出した。