第五十話

「──大丈夫か?」

可畏の静かな声が優しく問いかけてくる。未祥は可畏を見上げると、うんと頷いて少し笑った。そして可畏の服を離し、裕生と志門の待つ車庫へ入る。車庫の中はコンクリート敷きになっていて、奥の角には病葉(わくらば)が溜まっていた。

以前この車庫に収められていた覚羅聡の車は可畏と未祥が家から逃げる時に使用され、その後廃車にしたので今はない。思い出深い車だったが、追っ手のことを考えて手元に残すのをやめたのだ。

「ごめんね、待たせて。そこから入れるから」

未祥は志門と裕生に声を掛けると、車庫の横にある、玄関へ向かう通路の出入り口へ移動した。車庫の扉に鍵があるので、出入り口に鍵はない。未祥は四年ぶりに車庫から玄関の通路を抜けた。

玄関の前に来たところで、家の鍵がないことに気が付いた。鍵がなければ入れないのに、そんな基本的な事実に今まで思い至らなかった。どうしよう、と思ったらシャラリと耳元で音がして、鍵のたくさんついたキーホルダーを持つ手が未祥の後ろから伸ばされた。

可畏は未祥の肩に片手を置いて、自分で家の鍵を開けた。鍵は上下二段に設置されているので二つ分の鍵を回す。二つ目の鍵がカチリと音を立てて回った後、未祥はドアノブに手をかけた。スゥ、と息を吸い込んでから未祥がドアを開ける。開けられたドアの先に見えたのは、暗い空間だった。

閉め切りにしていた家特有のこもった空気が流れ出てくる。未祥はドアをストッパーが掛かるまで押し広げた。そして玄関に踏み込むと靴を脱いで家の中に上がる。この上り框の高さ、懐かしい……と未祥は思った。ほとんど無意識に玄関の電気のスイッチに手を伸ばす。未祥の手は正確にスイッチの場所に触れたが、押しても電気はつかなかった。

「電気は止めてあるんだ。シャッターを開けないと中が見えないな」

可畏は言いながら玄関を上がり、未祥の横をすり抜けた。薄暗い中、慣れた足取りで右横の部屋に入っていく。隣の部屋で窓を横に滑らせて開ける音がした。続いてガラガラとシャッター式の雨戸を開ける音が響く。

太陽の光は一瞬で広がり、廊下の薄闇も取り払ってくれた。でもそのお陰で床に積もっていた四年分の埃も鮮明になる。未祥が足を踏み出すと、床にくっきり足形が残った。未祥はため息をついて後ろを振り返った。

「やっぱりすごい埃だね。せっかく買った靴下が汚れちゃうから、ここで待ってる?」

玄関口に佇んだままの志門と裕生に未祥が訊いた。裕生は後ろ手で玄関のドアを閉めると上がり口に足を掛けた。

「あたしは三足セットの靴下買ったから後で違うのに換える。中を見せてもらっていいなら、一緒に日記を探すよ。なんだか家探しするみたいで気が引けるけど」

「あはは、それならあたしも一緒。聡おじさんの部屋なら何度も入ったことあるけど、持ち物を調べるなんてしたことないもの」

裕生の申し出に未祥が答えている間に、二階でシャッターを開ける音が聞こえてきた。可畏はいつの間にか二階の父親の部屋に行っていたらしい。相変わらず鬼は動く気配を感じさせない。

「志門も行く? ハダカの女性がたくさん載ってる本とか見つかるかもしれないよ」

「そういう言い草は、亡くなった人に対して失礼だぞ」

言いながら志門は靴を脱いで家に上がった。裕生の冗談にいつも通り答えていたものの、表情の硬さはさっきから続いたままだ。

「志門くん、大丈夫? 調子悪いの?」

心配そうな未祥の問いかけに、志門は少し笑った。

「大丈夫。ただここ、強い結界が張ってあるだろ? オレは光さんみたいに拒絶されてるワケじゃないけど、なんとなく重い空気を感じるんだ。周りの空間がオレに向かって迫ってくる感じ」

「そうなの……。志門くん霊感強いからかな。無理しないでね」

「うん、ヤバかったら外に出るから心配しないで。光さんも待ってるし、早く可畏さんを手伝おう」

三人は二階に向かう階段を上がった。未祥は出来れば台所や居間も見ておきたかったが、日記を見つけた後にしよう、と思い返した。四年前には、既に小さな主婦として家の中を切り盛りしていた未祥なので、空けていた部屋の状態が気になってしまうのだ。

冷蔵庫の中の生ものや溜まっていたゴミなどを、引っ越す時車に詰め込んだのは未祥だった。いつ帰れるか分からない場所に臭いの出るものを放置しておくなど考えられない。可畏はそんなことを思いつきもしなかったようで、十二歳の未祥の主婦ぶりに感心していた覚えがある。

二階に上がってすぐ、階段の前にあるのが未祥の部屋。ドアには「みひろ」と平仮名で書かれたネームプレートが掛けてある。向かって左隣が可畏の部屋。このドアには「LAND CRUISER」のロゴの入ったステッカーが貼り付けてあった。可畏さんは昔からランクル好きだったんだ、と志門は思った。

そして右隣が覚羅聡と先代の比丘尼、祥那が共にしていた部屋だ。その部屋でガタゴトと物音がする。三人が板張りの廊下に立つと、部屋のドアが開けてあるのが見えた。未祥が最初に聡の部屋に入る。そこでクローゼットに上半身を突っ込んでいる可畏の姿が見えた。

「可畏、あたしたちも探すね」

未祥が声を掛けると、クローゼットの服の中から可畏が自分を引っ張り出した。頭には父親のコートの袖が引っかかっている。

「助かるよ。そこの机はもう探したんだ。引き出しに入ってるだろうと思ったのにハズレだった。クローゼットにないとなると……押入れかな。押入れを探すのは時間が掛かりそうだな」

可畏が頭から袖を払いながら言った。聡と祥那の部屋には、ダブルベッドの横に生前聡が使っていた木製の机と、祥那が使用していた鏡台が置いてある。収納はクローゼットの他に押入れが作られていて、壁には横にスライドさせる扉がついていた。

たっぷり物が入りそうな羨ましい作りだな、と志門は思ったが、探し物をする時に奥深く物が入れられる押入れほどモチベーションが下がるものはない。未祥が押入れの扉を開けると、上の段には予備の布団が入っていて、下には段ボール箱や収納ケースが幾つも詰まっていた。三人の口から一斉にため息が漏れた。

「……ねぇ、日記って普通毎日書くものでしょ? そういうものをすぐ取れない場所に置くかな?」

裕生は顎に手を当ててつぶやくように言った。そのまま部屋の中をグルリと見回す。そしてふと思いついたように鏡台目がけて部屋を横切った。裕生は鏡台の引き出しを順番に開けていった。

一番上はファンデーションやマスカラ、口紅、カーラーなどが入っていた。二段目は宝飾品だった。どれも高価そうなアクセサリーばかりだ。よくぞ四年間、泥棒に入られなかったものだと裕生は思った。そのまま引き出しを閉め、一番下の大きな引き出しの取っ手を引く。

最初に見えたのはドライヤーだった。その横に蓋のない箱があり、髪につけるリボンやシュシュ、ヘアバンドが詰めてあった。そして箱の奥に、黒い背表紙の厚みのある本が一冊入っていた。