第四十六話

寝ぼけてぼやけた視界の中に、だらりと投げ出された手が見える。デカくて節ばった男の手だった。

……待てよ、この手はオレの手じゃない。自分のじゃない手がこんなに近くに見えるのはどうしてだろう。それにさっきから、頭の下の枕の感触が普通じゃない。なんとなく誰かの腕みたいな──。

「茉菜(まな)ぁ〜あぁ〜」という声と共に、志門は抱きすくめられた。がっしりした太い腕が、志門の胴体に巻き付いてくる。

オレは茉菜じゃねぇ! と思いながら絡み付く腕から逃れようとしたが、筋肉質なその腕は志門を抱き寄せて離さない。志門がもがいているのを意に反すこともなく、ゴツい手が志門の前開きトレーナーのファスナーをビッと下げた。

トレーナーの前を横にずらされ、中に着ていたTシャツをたくし上げられた所で、「光さん、起きて! オレだってばっ」と叫び声を上げた。

「んぁあ……?」という頼りない声を立てて、光が目を開けた。何度も目を瞬かせて、自分が抱き寄せながらまさぐろうとしていた人物をよくよく確認しようと頑張っている。でも手はどけてくれない。携帯は一度鳴りやんでから、また震えだした。

「禁断の愛……」とつぶやく女の声が聞こえた。志門が焦って首を上げると、床下に予備の布団を敷きつめて寝ていた裕生が立ち上がっているのが見えた。志門はほとんど半泣き状態になった。

何が禁断の愛だ。指で四角を作って構図を取るな! 色んな方向から検討するなっ。そんな暇があるなら光さんの頭をぶん殴って目を覚まさせてくれ。

「すごいわぁ、スケッチブック欲しい。あたしBLは全然だったけど、なかなか悪くないと思えてきた。セメとウケがはっきりしてる」

「光さん、携帯!」

志門が怒鳴ると、光は目をこすって手の力を緩めてくれた。志門は大急ぎでベッドの端に移動した。チッ、と裕生が舌打ちする。

何がチ、だ。攻めと受けってなんだよ。専門用語か? オレは絶対ソッチの気(け)はねぇからな。

「うぉい」

光が電話に返事ともうめき声とも云えない声で出た。相手の声に唸り声で返事をしながら、上体を起こしてベッドヘッドに寄りかかる。光は一度大あくびをしてから、「そうか、もう出ないと追加料金取られるな」と答えた。

光は段々頭がハッキリしてきたらしい。片手に電話を持ち、もう片方の手は腹に入れボリボリ掻きながら、電話の相手への返事も「ああ」とか「うん」に変わってきた。

「わかった。でも俺は今から速攻でシャワーを浴びる。十時までには部屋を出るから、先に精算してもらえると助かる。……そうか、すまんな。ん? なんか今色っぽい声が聞こえたぞ。朝からお盛んだな。

……なに? 服は着てる? 着てたってヤるこたやれんだろう。まぁいい。俺はどうやら志門を使わせてもらったらしい。……進んでるだと? 高貴な趣味と言ってくれ。大丈夫だ、責任は取る」

ガハハハ、と笑いながら光は電話を切った。志門は青くなってベッドの端で膝を抱えた。

──なんてことだ。オレは女を知る前に男を経験したのか? でも……でもズボンはちゃんと穿いてるし、多分パンツも脱げてない。確か寝る前に風呂に入ったけど、パジャマもないし、脱いだ服をそのまま着たんだ。

夜中光さんはビールだのチュウハイだのしこたま飲んでベッドで寝ちゃったから、裕生を隣に寝せるわけにもいかないし、オレが横に寝ることにしたんだ。裕生が後から風呂を使ってる時、今どこ洗ってんだ、とか想像して変なとこが反応しそうだったんで、急いで寝たのは覚えてる。多分そのまま寝入ったはずだ。それならオレは……オレはいつ、光さんと……。

目まぐるしく記憶を辿りながら、強ばった顔で志門は脚を抱えていた。くしくもその姿は、昨日の未祥と同じ姿勢だった。光はもう一度大あくびをした後、両腕を上に挙げて伸びをした。それから志門を見ると、まだ笑いを含んだ顔と声で志門に謝った。

「すまんな、少年。さっきは俺の愛しの姫君と間違えた。もちろん、間違えたのは今だけだ。お前には何もしていない。まさか自分で分かるだろ?」

志門は尻に意識を集中した。うん……痛くない。志門は自分の愚かさに赤面しながら、引きつった笑いを浮かべて光に言った。

「も……もちろん、分かりますよっ。茉菜さんって光さんの恋人なんですか?」

「恋人というより婚約者だ。もう一緒に暮らしてるからあいつが隣にいない夜があんまりないんでな。つい、間違えた。俺より二つ年上の、おっぱいもお尻もプリンプリンのいい女だぞ。ちょっと腹も出てるが、そこがまたいい」

そんな柔らかそうな女性とオレを、どうやったら間違えるんだ、と志門は思ったが、どうやら貞操の危機は免れたようなのでホッとした。

光は立ち上がると、床に敷いた布団を畳んでいる裕生に「そのままで平気だろう。それより隣と合流してチェックアウトしといてくれ」と声を掛けてから車の鍵を渡した。志門は顔くらい洗いたいと思ったが、光がバスルームに入ってしまったので、仕方なくそのまま出る事にした。

ドアを開けると、丁度隣のドアも開くところだった。未祥と裕生は顔を合わせると「キャー」と言ってお互いに抱きついた。

「未祥、大丈夫だった? つらかったね。何も出来なくてごめんね」

「そんなことないよ。可畏から裕生ちゃんと志門くんがついてきてくれたって聞いて、すごく嬉しかった。……こんなことに巻き込んじゃって、あたしの方こそごめんね」

「いいの、あたしはついてきたかったからそうしただけ。あの羅威って奴に今度会ったら、可畏さんがボコボコにした後、あたしがきっちり三年殺し≠キメとくからね」

二人はきゃいきゃい話しながら廊下を歩きだした。可畏は志門と目を合わせると、少し微笑んだ。スラリと背が高く、洗い立ての髪が艶めいている可畏は志門から見ても惚れ惚れするほどカッコ良かった。その顔には昨日の悲壮感が消えて、精神的にも肉体的にも満たされている男の充実感が漂っていた。負けてるよなぁ……と志門は思う。俺も六年後には、こんな風になれるだろうか。

「昨日は助かった。ありがとう」

可畏は志門に短く言うと、肩をポンと叩いて未祥と裕生の後を追った。志門も後に続いたが、今の可畏さんの肩の叩き方……なんか意味深じゃなかったか? と思い立った。志門は考えながら歩いて、ハッと思いついた。

「あのう、可畏さん。オレと光さんはその……何にもないですから!」

必死な顔で訴えかける志門を可畏は目を丸くして見た。それからブッと吹き出すと、手の甲を口元に当て、肩を震わせて笑い出した。

「大丈夫。あれが冗談だってことはあの時分かってたから。でもまぁ……人生色々だからね」

言うと可畏はまた志門の肩をポンと叩いた。そして精算しにフロントに向かう。

志門は最後のポン≠ノ、もっと意味深な何かを感じたが、これ以上言い訳すると余計ドツボにはまりそうなので、涙目のまま口をつぐんだ。