第四十五話

可畏は未祥に微笑んだ後、指先で未祥の鼻先をチョンと突いた。これは未祥が小さな頃から、時々可畏がやる癖だった。未祥は可畏の微笑みに、憂いがなくなったことに気が付いた。あの寂しげな、どこかに消えてしまいそうな危うさが見えない。

未祥は胸の中心から苦しいくらいの安堵と喜悦が湧きあがってくるのを感じて、嬉しさのあまり泣き出した。可畏が未祥を抱きしめる。ダポン、と鳴ってお湯がバスタブから溢れ出た。

「……可畏がお爺さんになって死ぬときは、あたしも一緒に死ぬからね」

未祥は可畏にしがみついて言った。八百比丘尼だか何だか知らないけど、どうにかして死ぬ方法はあるだろう。可畏を失った後も、長々と生きていたいとは思わない。可畏は困ったようにため息をつき、未祥の髪を柔らかく撫でた。

「それはその時考えよう。俺は今を大切にしたい。俺は今生きていて、こうして未祥のそばにいる。俺にはもう、それだけで……」

その想いを噛みしめるように、可畏は未祥を強く抱いて髪に顔を埋めた。未祥も可畏の裸の肩に頬を押し付ける。可畏の体温と鼓動をしっかり感じる。ずっとこんな風に抱きしめて欲しかった。それがやっと、現実になった。

今はもう……それだけで──




可畏はホテルの備品の安っぽいブラシで未祥の髪を綺麗に梳かした。

ドライヤーで乾かしたものの、未祥の髪はまだしっとり濡れていた。可畏は脚の間に座る未祥の腰を両手で掴むと、持ち上げてから膝の上に乗せた。未祥は身をよじり、可畏の顔を見た。

可畏は未祥の右側の髪を耳にかけた。耳たぶの宝珠の輝きが眩しく目に映る。制服を着た未祥は一見、いつもと変わらなかった。でも今日からは自分で結界を張ることが出来る。

「どうするの?」

「目を閉じて、心を落ち着かせるんだ。右耳に意識を集中して、力を中に引き込む。体の中に輝きを閉じ込めてみて」

「……それだけ?」

「ああ、やってごらん」

未祥は目を閉じ、少し眉をしかめて息を止めた。眉の上が少し窪んで、一生懸命さが伝わってくる。初めて足し算を教えた時を同じ顔だな、と可畏は思った。心の中で一つ一つ数を数えている……。

段々、右耳の光が弱くなってきた。煌めいていた宝珠はゆっくりとただのピンクの石になり、やがて無色透明になった。玉ねぎ型の小さな石が完全に見えなくなってから、未祥はそろりと息を吐き出した。そして目を開けると、先生に計算の答えを見せる子供のような表情で可畏を見た。可畏が笑んで頷くと、未祥はパッと花開くように笑った。

「見えなくなった?」

「なったよ」

「わーい、できた!」

未祥は大喜びで可畏の首に腕を回して抱きついた。勢いで後ろに倒れそうになるのを、可畏はなんとかこらえた。

「よくやったな」と可畏が褒めると、未祥は嬉しそうに可畏の頬にキスをした。可畏はもともと髭は濃くないけど、さっきお風呂場でシェービングしたからツルツルしていて気持ちいい。

「あ、でも……」

可畏の耳のすぐ下で、未祥が残念そうな声を出す。

「これからはこうして朝、可畏の膝の上で結界かけてもらえなくなっちゃうんだね……」

しょぼんとした顔で未祥が言うので、可畏はなんだか可笑しくなった。可畏の膝で横座りになって、脚をブラブラ揺らしている未祥が、また幼い頃の記憶と重なり合う。

「それなら朝でも昼でも夜でも、好きな時に乗ればいい。それとも結界の為じゃないと、膝に乗ってもらえないのか?」

可畏が言うと未祥は目をパチパチさせて頬を赤らめた。それから納得したように下を向いて「……乗る」と小さく言った。

可畏は未祥の顎に手を掛けると、顔を寄せて唇を合わせた。今までの朝の儀式の欲求を全て払拭しようとするように、深いキスを交わしながら未祥の大腿に手を滑らせる。女らしい柔らかさと滑らかさを手で堪能しながら、可畏は未祥をピンクのベッドに押し倒した。

「……ん……ね、もう時間が来るよ。今、九時四十五ふ……っ」

未祥はホテルのチェックアウトの時間を可畏に訴えようとしたが、執拗に口を探られて全部いう事が出来なかった。可畏は一際丹念に舌を絡ませた後、仕方なさそうに口を離した。

「そうだな、隣も気になるし。そろそろ出よう」

言うと可畏は枕元に置いておいた携帯に手を伸ばした。未祥も隣にいる友人が気になったが、起き上がることが出来なかった。可畏は未祥のショーツの中に片手を忍ばせたまま、光の番号を呼び出し、通話ボタンを押した。





ブー、ブー……と何かが震える音がする。携帯のバイブの音だ、と思いながら志門は目を覚ました。独特の低い震える音の他に、ゴー……、といういびきと寝息が混ざったような音も聞こえた。親父の奴、まさかオレの部屋で寝てんじゃねぇだろうな、と思い寝返りを打った。頬についた枕の感触が、ゴツゴツしているのに柔らかい変な感じがする。

ここは自分の部屋じゃない。志門は急速に記憶が戻った。

そうだ……オレは昨日、ラブホテル初体験をしたのだ。一緒にいるのが彼女じゃないってあたりがガックリだけど、それなりに楽しかったからまぁいいか。未祥ちゃんはどうしただろう……。

まぁ可畏さんと二人だけといっても、あの二人はまだ○○○するわけにいかないもんな。ソレをしたら未祥ちゃんは赤ん坊になってしまう。可畏さんがそんなことをするわけがない。きっと二人は、ただ一緒に寝ただけなんだ。今日は清らかな朝を迎えたはず。

──そう信じよう。

覚め切らない意識の中で、志門は昨日あった出来事を思い返していた。油断すると自分の記憶の中にするりと落ちていきそうになる意識を、携帯のバイブの音が引き戻してくれる。志門はくっつきそうになる目をなんとかこじ開けた。最初に見えたのは人間の指だった。