第四十話

「羅威、お前これからどこに行くんだ?」

背を向けた羅威に光が訊いた。羅威は首だけで後ろを軽く振り向くと「家に帰るよ」と答えた。

「来週からでもいいから、ちゃんと出勤しろ。無断欠勤の分は給料から差し引くからな。ほんとは減俸ものだぞ」

「ちっ、ケチだな。分かったよ。来週からちゃんと行く」

「もう一つ聞きたいことがある」

光の低い声は、重々しく夜の空気を伝っていった。羅威は、今度は光の方に向き直った。

「……何?」

「お前は何故、多聞に手を貸した?」

羅威は一度口をつぐんだ。腕を組み、ため息をつくと仕方なさそうに答える。

「多聞は俺に、実の兄の居所を知っているだろう、と訊いてきた。俺が知らないと言うと、探し出せ、見つからなかったら酒蔵に火をつけると脅してきたんだ」

「なんだと? あいつらそんな卑怯な事を」

「ああ。でも協力すると見せかけて、裏をかく機会を狙ってた。幸いそこの彼のお陰であっさり上手くいったけど」

羅威は志門をチラッと見ると薄く笑いかけた。それから後ろを向くと軽く片手を上げ、一瞬で闇に溶けた。四人の目には、まだ羅威の着ていた臙脂色のジャケットの残像がぼんやり見えていた。速疾鬼の速さは風そのものだった。

「俺は未祥の所へ行く」

可畏はそれだけ言い置くとホテルに向かって走り出した。速疾鬼ほどではないものの、あっという間に遠ざかっていく。「後で電話しろ!」と光が呼びかけたが、聞こえたかどうか分からなかった。

「追いかけなくていいんですか?」

志門は光に聞いた。光は眉を上げると、下唇を突き出して志門を見下ろす。

「三人でラブホに入るか? 制服の君たちを引き連れた俺はナンの先生だ?」

もっともな意見だった。どうやら今は可畏からの連絡を大人しく待つしかなさそうだ。
志門は可畏と羅威が消えた街灯の奥に目を凝らした。自分の鼻腔に、血の匂いが薄くなる。羅威に追いついた時、鼻についた濃厚な残り香。

羅威のしてきた食事≠ヘ何だったのだろう……、と思いながら志門は冷えた空気を吸い込んだ。







ガチャガチャ、とドアの鍵を回す音がした。未祥はスゥ、と息を吸い込むと目を閉じる。結局どんなに頑張っても、縄はほどけなかった。腕を強く動かしたせいで手首が痛くてたまらない。もう方法は一つしかない。カチャリと軽い音を立ててノブが斜めに傾き、その人物が入ってきた瞬間、未祥は目を開いた。

「近寄らないで!」

両腕を上に持ち上げ、起き上がることの出来ない状態のまま、首だけ持ち上げて未祥は男に怒鳴った。男が目を見開いて息を飲む。背の高いその人物の後ろでドアが自然に閉まった。

「そこから動いたら、あたしは舌を噛みます。あたしはあなたの妻≠ノなんかなりたくない。絶対いや。あたしは可畏が好きなの。可畏以外の男に触れられるなら、死んだほうがマシよっ」

裕生ちゃん、あたしバカだね、と未祥は心の中で思った。裕生ちゃんみたいに前を向いて、もっと毅然と戦いたかった。でもこの状況をどうにかするだけの力が、あたしにはなかったの。操を守るために死を選ぶなんて、時代錯誤もいいとこだよね……。

涙を浮かべて睨みつける未祥の前で、その男は困惑した顔をしていた。そして何故か白い頬が赤くなっている気がする……。男は着ていた上着を脱ぐと、それを未祥にかけようとするように広げながら一歩前に出た。

「来ないで! イヤッ」

未祥はまた声を張り上げる。無意識に脚をバタバタと動かした。恐怖と怒りが爆発し、自分がスカートしか身につけていないことを思い出す余裕もなかった。

「未祥」

その声は静かに、未祥の耳に届いた。激しく動いていた未祥の脚が、ゆっくりと止まる。羅威はホテルで一度も、未祥を名前で呼ばなかった。それにこの声のイントネーションは耳慣れた優しい感じがする。未祥は息を切らしながら、男の様子を今度は慎重に観察した。

今まで見えていなかった部分が、急に鮮明になった。濃紺のセーターは、未祥がいつも縮まないように気をつけて洗うものだ。手に持つジャケットも、あいつが着ていた臙脂色ではない。毎日見ていた黒の本革の──

「可畏……?」

未祥が問いかけると、その顔はゆっくり頷いた。まるで声を出すと未祥がまた暴れるのではないかと恐れているようだ。

「か……い……可畏!」

未祥の目から、涙が溢れ出した。全身がブルブル震えだす。豊かな乳房が顕になっているのを恥じることも忘れて、子供のように声を上げて泣き出した。

可畏は素早く未祥に上着をかけると、手首に巻きつけられた紐を解こうとした。よほど暴れたのか、紐は手首にきつくくい込み、血が滲んでいる。可畏は羅威の小馬鹿にしたような笑顔を思いだし、怒りが湧き上がるのを抑えられなかった。未祥にこんな酷いことをするとは──。やはりあいつは信用に足る相手ではない。

可畏はどうにか縄を解くことに成功した。細い手首は火傷を負ったように赤く爛れていた。未祥はすぐ腕を動かそうとしたが、肩に激痛が走った。ずっと同じ姿勢をしていたので、筋肉が硬直していたらしい。

「ゆっくりでいい。そっと動かして」

可畏は未祥の腕を優しくさすりながら、慎重に腕をしたに下げるのを手伝った。未祥は両腕をなんとか身体の横に戻した。いつもの場所に腕が収まり、未祥は大きく息を吐いた。安堵と解放感が体中を伝っていく。また未祥の目から涙がこぼれた。

無言で未祥の腕を摩り続けていた可畏の手が、止まった。未祥は自分の横に身を横たえる可畏を見ると、まだ痺れの残る腕を伸ばした。可畏は力を入れすぎないように加減しながら、今度こそ躊躇うことなく、未祥を胸に抱きしめた。