第三十九話

「──お前、未祥をどうするつもりだ?」

握った手にじっとり汗が滲むのを感じながら、可畏は羅威に聞いた。多聞ではなく、この弟が未祥の夫≠ノなったという事実を、未だ実感することが出来ない。それでも鬼は戟の持ち主に逆らえないのだ。羅威が未祥に二度と会うなと言えば、その命令に従う以外術はない。それを思うだけで気が遠くなりそうだった。

羅威は可畏をじっと見つめた。その顔は無表情だったのに、志門にはそこに流れる内面の思いが何故か見えるような気がした。わずかな期待と諦めと──憎悪。

「未祥、未祥、未祥のことだけ……か」

囁くように羅威は言った。一度目先を下に向け、少しだけ肩を落とす。その顔を見て、この人は可畏さんと瓜二つではない、と裕生は思った。もちろん目鼻立ちは同じだし、身長もそう変わらないけど、羅威の方が全体的にほんの少し小さく見える。羅威はすぐに目を上げると、軽く首をかしげて顎に手を当てた。

「ふうん……そうだな」という言葉が四人の耳に届いたと同時に羅威が消えた。

バシッと何かがぶつかる音が志門すぐそばで響いた。目の前にさっき十歩ほど離れた場所にいた羅威の臙脂色のジャケットが見えた。羅威の握った拳を可畏の左手ががっちり掴んでいる。その姿は、殴りかかってきた相手の手を咄嗟に受け止めた喧嘩の一シーンのようだった。

双子の鬼は間近で睨み合った。羅威がギリ、と歯を噛み合わせ「鬼術か」と言った。そして可畏の手を振りほどくと、一歩下がる。

「俺の姿が見えたのか?」

右の手の甲を摩りながら羅威が兄に問いかける。平静を保とうとしていたが、その頬の横には冷や汗が流れていた。よもや速疾鬼の早さを捉える人物がいるとは……。

「見えないが気配で分かる。風(ふう)、気(き)、音(おん)、念(ねん)、動(どう)を感じ取る事は鬼術の基本だからな」

冷静な可畏の答えに、チッと羅威が舌打ちした。次に可畏の目を正面から見据えると「動くな」と命令した。

羅威の左手が可畏の肩に掛かった。志門がハッと息を飲み込んだ時には、ゴスッという鈍い音と共に羅威の握り拳が可畏の腹に当たっていた。可畏は下を向いて前屈みになった。

可畏がよろけてくずおれるのではないかと思い、志門は手を貸そうと前に出た。でも可畏は持ちこたえて、肩に掛かる羅威の腕を手で掴むと、ゆっくり顔を上げた。双子は再び睨み合う。その様子を見て、慌てて光が二人の間に分け入った。

「おいおい、いい加減にしろ。羅威もその辺にしておけ。こんなことをして何になる?」

「俺はこいつが嫌いだ」

吐き捨てるように羅威が言った。可畏はその言葉にショックを受けた。ずっと離れて育ったのに、嫌われる道理などない。好きも嫌いも、お互い相手のことを殆ど知らないのだ。

「そんな駄々っ子みたいなこと言うな。たった一人の兄弟だろう。ちゃんと話をすれば分かり合える。これからは協力し合って生きていけばいい」

諭す様に光が言う。羅威は唇を引き結んだまま可畏を鋭く見ていたが、急に表情を和らげた。にこやかな笑顔を見せながらまた可畏の肩に手を置く。咄嗟に可畏は腕で腹をガードしたが、羅威はポケットからおもむろに何かを取り出しただけだった。指先でそれを抓むと、可畏の目の前でゆらゆら揺らす。

「これが何か分かるか?」

羅威の笑顔の前で、金色の小さな棒が揺れている。街灯の灯りしかない夜の薄闇の中で、キラキラとそれは輝いた。

「戟──だろう」

可畏は声を絞り出して答えた。やはり弟が戟を持っていた。比丘尼の……未祥の夫≠ナあることの象徴。可畏の後ろで、裕生がヒソヒソと志門に囁く。

「ねぇあれ、猿のおじさんが吐き出した時のままかな? 洗ってないと思う? そしたらクサそうだよね」

「確かにな」

高校生達の場にそぐわない会話は鬼の耳に届いていた。ムッとした顔で羅威が二人を見ると、志門と裕生はサッとそっぽを向いて何もなかったフリをする。羅威は一度咳払いをした後、また可畏に視線を戻した。

「これさえあれば、あの麗しの比丘尼さまの吸い付くお肌を思う存分味わえる訳だ。俺はこれをあんたに譲ってやってもいいと思ってる。一つ条件を満たせば、だけどね。俺だって兄さんと協力し合って≠竄チていきたいしさ」

「……条件はなんだ?」

可畏は思わず胸が熱くなるのを、グッと押さえて羅威に訊いた。この実の弟の事は良く知らないが、さっきの態度からはとても友好的とは思えない。どんな条件を出されるのか聞く前に、手放しで喜ぶのは避けた方が無難だった。羅威は楽しそうな笑顔を浮かべ、もう一度戟を軽く揺らすと可畏に条件を言った。

「父さんの日記を持ってきてほしい」

「日記?」

「そう。あるはずだよ。兄さんは知らないの?」

「あるのかも知れないが、俺の手元にはない。親父が死んだ後、必要なものだけしか持たずに家を出たから。あるとしたら四年前まで住んでた家だ」

「その家はどうした?」

「一度も戻らないままだ。引っ越しに必要な手続きは済ませたが、後は放置している。あれは親父の持家だから、空き家として残っているはずだ」

「それなら、日記はそこにある。それを取ってきて欲しいんだ。その条件さえ満たせば、戟を渡してあげるよ」

可畏は目を眇めて羅威を見た。弟の意図が分からない。父の日記の事など、可畏は知らなかった。どうしてそれを羅威が知っているのか……。

「どう? 条件としては悪くないだろ。難しいことじゃないし。見つかったら──そうだな、今から言う番号に電話してくれ。一度しか言わないから覚えろよ」

羅威は可畏の耳元に口を寄せると、可畏にだけ聞こえるように番号を伝えた。そして可畏から体を離した次の瞬間には、十メートル以上後ろに下がっていた。

「電話をくれたら迎えにいくよ。その後、愛の館に招待してやる。必ず比丘尼と一緒に来てくれよ」

羅威は可畏に向かって棒状のものを放り投げた。パシッと可畏が片手で受け取る。可畏の手の中で細長い棒の先についた鎖がカシャリと音を立てた。それはホテルの鍵だった。