第三十二話

光は突然、言葉を途切らせた。狭い助手席で大きな体を窮屈そうに動かすと、両手で頭をボリボリ掻いた。

「こっから先を話すのは、胸糞が悪くなるから実は言いたくない。でも話さないと伝説のすべてが分からんし、いま比丘尼……いや、未祥ちゃんが置かれている状況が理解しにくい。だから話すが──俺は吐くかもしれん。ヤバそうだったら車を止めてくれよ、可畏」

「了解。でも急に来たら袋にやってくれ。そこのダッシュボードの中に入ってる」

可畏の言葉に光が素直に従い、助手席側のダッシュボードの蓋を開けると、中には車検証と一緒に、きちんと折りたたまれたスーパーのビニール袋が幾つか入っていた。広がらないように三角の形にきっちり折りこまれている。こういうちまちました細やかな気が利くのは、未祥だろう、と光は思った。

光はさっき訪れた、可畏と未祥の住む安アパートを思い返した。狭いけれど、こじんまりして居心地のいい綺麗な部屋だった。台所も食器がちゃんと棚に収められ、機能的に調理器具が配置されていた。

光が今まで抱いてきた刀利の比丘尼≠フ印象は、漠然とした、神仏に近い存在だった。奥まった部屋に閉じ込められ、高価な服を着せられ、皆に傅かれる高貴な女性。

でも今、そこかしこで感じる未祥の残像は、あまりにも凡庸で驚くほど生活感に溢れていた。可畏と一緒にいたのは少しだけ特殊な能力を持つ、普通の女子高生だったのだ。後部座席の二人のように仲良くなれた友人も出来、恋に悩んだり、勉強にウンザリしたりする、思春期の乙女。

もし比丘尼が超然として人間を見下ろす神≠ニいう存在ではないなら、感情が、心があるなら、今までの歴史はよりむごいものになってしまう。光はますます話す気力が削がれてしまったが、なんとか気力を奮い立たせた。

「伊助も他の男共と同様に、お祥の夫として戟を授かりたいと思った。でもそれにはお祥に惚れてもらわなきゃならない。伊助はその時二十代後半くらいだったらしいが、お祥と年も離れているし、まともな方法では夫になどなれないと分かっていたのだろう。

そこで奴は卑怯な方法に出る。今までよりもっとお祥と仲良くなれるよう、遊んでやる機会を増やした。その頃には双子の鬼は二十歳になっていたから、鉱石の採掘現場で熱心に働いていて、日中お祥は他の子達と一緒に過ごしてたんだ。伊助は鬼のガードのないお祥を徐々にたぶらかし、信用を得てから、言葉巧みに戟を持ってきてほしいと頼んだ。

お祥はまだ十歳で、人を疑うことを知らなかった。戟は通常双子のどちらかが保管していたが、お祥は一度だけ貸して欲しいと申し出た。鬼たちは絶対に人に渡してはならない、と約束させてお祥に戟を渡してしまう。ここからが羽衣伝説の始まりだ」






大型ベッドの前にある大画面テレビに、突然映像が現れた。羅威は話を一度やめると、リモコンのスイッチを押したらしい。未祥は自分の──比丘尼の宿命の話を聞いて、無意識の内に涙を流していた。その曇った視界に、制服を殆ど脱がされた女子高生と若い男の姿が映る。

テレビ画面の若い男は、制服のブラウスとブラジャーをじらすように剥ぎ取り、女子高生の乳房が画面に大アップで映るよう、自分の体をカメラの前からどけた。それを見て、未祥はここが普通のホテルではないと気付いた。

部屋の調度品はけばけばしいものなどなく、ただベッドだけがかなり大きいという印象しかなかったが、自分がいる部屋はいわゆるラブホテルなのだとテレビの映像から察しがついた。画面では男の手が女の体をまさぐり始め、女が高い声を上げ始めていた。

「クソ演技だな」

羅威が吐き出すように言った。椅子の肘掛けに片肘を乗せ、手で顎を支えながら画面を見ている。薄暗い部屋にテレビ画面のとりどりの色がチカチカと広がる。羅威の顔にも画面の色が反映されて、白い肌に奇妙なまだら模様を作った。

「今までこの安い女と守銭奴男の馬鹿なセックスを鑑賞した後、どんだけの人間がコーフンしてそこのベッドで腰ふりダンスしたんだろうな。こういうの見てると、愛なんてモノを後生大事にしてる奴が本当にこの世にいるのか疑わしくなるよ」

羅威は手にしたリモコンで自分の頬をペチペチ叩きながら、皮肉っぽい調子で感想を述べた。未祥はテレビの中でどんどん喘ぎ声を大きくしていく女の声を聞いて、自分の部屋の夜を思い出す。

可畏に抱かれた女も、このテレビの女ほど大げさではないものの似たような声を出していた。いつかあたしも可畏と……と夢見ていたのに、それは絶対叶わない本当のまぼろしとなってしまった。未祥の頬をまた新たな涙が伝い落ちていく。

「えーと、どこまで話したっけ? そうそう、お祥が戟を伊助に見せるとこだ。おバカなさっちゃんはお猿のオジサンに戟をご披露してしまう。今まで優しげに見えていた猿おじさんは、戟を見た途端恐怖のオッサンに豹変した。お祥を殴りつけ、金色の戟を奪い取ると、誰にも取られないように飲み込んでしまったんだ。

伊助は勝利の雄たけびを上げた。あまりの喜びに小躍りした。多分この時伊助は狂ってしまったんだろう。嬉しさのあまりね。人間喜びがデカすぎると頭がイカレる事もあるんだな。俺の母親は離婚のショックで気がおかしくなったけど」

テレビでは男がカメラに向かって女の脚を広げさせようとしていた。羅威はげんなりした顔でその映像を見ると、リモコンの電源ボタンを押してテレビのスイッチを切った。