第三十話

一瞬で落ちかけていた意識が戻る。目を開けると、そこにはまだ未祥の髪を掴んだままの、無慈悲な愛しい顔があった。

羅威は未祥の頬を叩いた手を、ゆっくり下にさげた。そして未祥の髪の毛を握る手を緩めると、手荒く振り払う。編んである髪は自由になった反動で前後に揺れて、未祥の頬にぶつかった。未祥はビリビリとした痛みを頬と頭の両方に感じた。

引っ張られていた頭皮が急激に収縮し、部分的に熱を発している。三つ編みを梳いたらごっそり毛が抜けてくるだろう、と思いながら未祥は曲げた両脚を腕でギュッと抱いて、更に縮こまりながら恐る恐る羅威を見返した。羅威は膝立ちで両手をダラリと下げて、蔑むように未祥を見ていた。

「──やめた」

ビクリ、とはずんで未祥が羅威の声に反応する。羅威はそんな未祥を一瞬見つめると、フイと後ろを向きベッドから降りた。そのまま真っ直ぐ進んで、部屋の隅に設置されているテーブルの上のペットボトルを取る。未祥は急いでブラウスのボタンを留めた。手が震えて上手くいかない。手元を見たかったけど、羅威から目を離すことが出来ない。

羅威はポケットから何か取り出した。カシャカシャいう音の後にプチプチという音が続く。この音は──薬を出す音だ、と未祥は思った。錠剤が連なって入っているシートから薬を押し出す音。

薄暗い照明のせいで見難かったが、羅威が手の平に薬らしきものを乗せてから口に入れ、ペットボトルの水をグッと飲み干すのは見えた。ゴクン、と喉を鳴らしてから、ふぅと息を吐き、羅威はテーブル横の椅子に座った。

「あんたが男を喜ばす方法も知らない女だったとは、期待はずれもいいとこだ。俺は処女が嫌いなんだよ。いざって時にメソメソされるのもウンザリするし、下手にうまくやっちまって感動して泣かれるのも御免だしな。

可畏もバカな奴だ。俺たち鬼の体は二十代前半が一番ビンビンな時期なんだぜ。箸が転がっても欲情するってヤツさ。どうせあんたは多聞と父親が使った女なんだから、はけ口としてオモチャにすれば毎晩スッキリ出来たろうに」

未祥はブラウスを整えると、布団の薄い上掛けの中に脚を入れ、その中で脚を曲げて体に引き寄せた。スカートのまま脚を曲げていると、下着が丸見えになってしまうからだ。

羅威がとりあえず、今は自分をどうにかしようとするつもりじゃないと分かったので、未祥は少し緊張を解いた。ドキドキする心臓を手で押さえ、落ち着け、と自分に言い聞かせる。

考えてみたらここがどこなのか、何故この羅威という男は自分を連れ去って来たのかも分かっていない。泣いて怯えている場合じゃない。とにかく話を聞いて状況を把握しなければ──。

さっきから羅威は未祥が知らない比丘尼や鬼、刀利村の事を所々で明かしている。かなり詳しく知っていると見ていいだろう。未祥は数々の疑問を解消するため、音が出ないように深呼吸してから、羅威に質問をぶつけてみた。

「つ……使った女って、どういうこと?」

羅威は椅子の背もたれに気だるげに寄りかかると、脚を組んで斜めから未祥を見た。小馬鹿にしたような表情をしているが、先程までの迫力はない。顔色が悪く見えるのは照明の具合だろうか。

「刀利の比丘尼は戟を持つ男と以外、セックスが出来ない。もし戟を持たない男とやっちゃたりすると、翌日の朝に比丘尼は赤ん坊に戻っちまうんだ。それで乳児からやり直して、十六歳になるとまた成長を止める。比丘尼が十六の誕生日を迎えるまでに戟を手に入れ、くちづけを交わした男だけが夫≠ニなり比丘尼とセックスできる。

赤ん坊に戻ると今までの記憶はなくなり新しい比丘尼になるらしいけど、死んでなくなるワケじゃなくて、同じ体がただ乳児として再生するだけだ。大昔から何度もそれを繰り返してきたから、あんたは使い回しだと言ったんだよ」

未祥は愕然として羅威を見つめた。今の説明では断片的にしか理解出来なかったが、要するに自分は夫≠ニして決まった男にしか抱かれることが出来ない、ということだろうか。それでは──

「今の比丘尼、要はあんたの夫≠ノなったのは、俺なんだ。だからあんたは俺以外の男とHが出来ない。例えば可畏とどーしてもやりたくなって、乳繰り合いだけじゃなく最後までいっちゃたら、翌日あんたは赤ん坊に戻るとこになる。全ての記憶を失い、次の比丘尼としてね」







前方のテールランプとの間合いを計りながら、可畏はアクセルを踏み込んだ。未祥は今頃どうしているだろう。

羅威の存在は未祥に話したことはなかった。羅威は幼いころから体が弱く、母親から引き離すのは可哀想だということで、父は可畏だけを連れて村を出た。五歳までしか一緒にいなかった双子の弟は、可畏からするといつも布団に寝ていた印象がある。

一卵性の双子だが、母親のお腹の中で可畏だけが栄養を吸い取り、羅威は上手く成長できなかったと聞いたことがあった。近所の奥さんと母親が話しているのを小耳にはさんだ程度だが、それ以来羅威に申し訳なくて、羅威のわがままを大抵なんでも受け入れていた。

自分のオモチャ以外にも可畏の分まで欲しがる羅威。好きなお菓子なら可畏のも欲しいとわめき、嫌いなブロッコリーは可畏の皿にこっそりのせる弟……。

今となっては笑ってしまうような小さな事だが、五歳の子供には生きるのが嫌になるほど辛い毎日だった。羅威は羅威で苦しい思いをしてきただろうが、可畏もまた、重い荷物を背負っていた気がする。何よりつらかったのは、羅威の世話でいっぱいになっている母親の存在だった。

あなたは元気なんだから自分で出来るでしょ? お兄ちゃんでしょ? と何度言われたことか。父が比丘尼を連れて村を出る一ヶ月ほど前から、急激に羅威の体調が良くなったのは覚えている。母は羅威の回復を喜び、ますます可愛がった。

母の胸に顔を擦り付ける羅威を離れた場所から見ているしかなかった可畏は、甘えたい気持ちをずっと抑えて生きてきた。だから父が母と別れて比丘尼を連れて村を出たとき、寂しさより安堵が先に立ったのを覚えている。

「あのー、戟とか宝珠ってなんですか?」

裕生の声が後部座席から問いかけてきて、可畏は自分の物思いから我に返った。光はメロンパンにかぶりついているところだったので、説明役は可畏の番になった。