第二十二話

裕生の説明が終わり、やっと今の状況が分かった。可畏は焦点の合わない目で自失したかのように前方を見つめている。

羅威が──未祥にくちづけた。その事実が示すことはただ一つ。
次の多聞≠ニして鬼達の前に君臨するのは、可畏の弟、羅威ということになる。

「羅威は……その男はどこに向かった?」
呆然としている可畏に代わって、今度は光が裕生に質問した。

「分かりません。どの道をどの方向に去ったのかも、全然分からないんです。いきなり消えた、という感じでした」
「──速疾鬼(そくしつき)……」

光が囁いた言葉に、可畏は意識を取り戻した様子で顔を上げた。その眼は新たな疑惑で、鋭く光っている。光が可畏に向かって口を開きかけたとき、裕生が声を上げた。

「すみません。私、志門が心配なんです。ここは凄く寒いし、このまま寝かせておいたらこいつ痔になるかもしれない」

裕生の、的を射ていながら変な心配の混ざった指摘に、光は納得して話を続けることはやめにした。

「彼女の言うとおりだ。もうすぐ仕事帰りの人たちが沢山通る時間になるし、こんな所で群がってると不審がられる。とりあえず、可畏のアパートに行かせてくれ。そこで今後の事も話し合おう」

可畏は眉根を寄せて思い詰めた表情をしていたが、一度頷くと志門の首に手を当てた。次に口元に手をかざし、呼吸を確認する。

「脈拍は力強いし、呼吸も正常だ。特に苦しんでいる様子もなく、異常なイビキをかいてもいない。そして顔色もいい。こんな場所じゃなきゃただ寝ているみたいに見えるな」

事実確認をするだけ、という感じでつぶやいた後、可畏は志門の体を背中に担ぎ上げた。 光に車のドアを開けてもらって、助手席に志門を座らせる。光が後部座席に座るのを確認し、運転席に向かおうとして裕生の存在を思い出した。

「君は帰ったほうがいい。こんなことに巻き込んで、本当にすまなかった。もう薄暗いから家まで送るよ。乗ってくれ」
「嫌です。車には乗りますけど、私は帰りません」

きっぱりと、裕生は可畏に伝えた。可畏は驚いて裕生を見る。そこには、このまま帰らされてたまるか、という意思をこめて自分を見る、真っ直ぐな瞳があった。

「未祥も志門も、私の大切な友達です。その友達の片方は行方不明で、もう片方は気絶している。私はこのまま家に帰って、普通にご飯を食べて寝るなんて出来ません。そこまで根性が座ってないです。迷惑だと分かってます。でも私にも納得出来る理由が欲しい。だから一緒に連れて行って下さい」

一歩も譲らない、と心に決めた瞳で裕生は可畏を見返す。可畏は高校に入学した当初の未祥の言葉を思い出した。

裕生ちゃんて子と仲良くなったの。裕生ちゃんはね、絵を描くのが好きなんだって。他の子みたいに芸能人の話とか、人のうわさ話とかあんまりしないんだけど、すごく面白いの。自分≠トいうものがある感じがして、憧れちゃうんだ……

裕生と出会ったことで、未祥は驚くほど明るくなり、自分の意見もきちんと言えるようになった気がする。未祥にとって裕生が初めて分かり合えた貴重な友人であると同時に、この子にとっても未祥は大切な友達なのだ。

「分かった。じゃあ車に乗ってくれ。おっと、家にはちゃんと連絡するんだよ」

裕生が頷いて光の隣に乗り込むと、可畏も運転席に座った。裕生には今までのいきさつをもっと詳しく聞かせてもらおうという心づもりだが、それでも何か危険が伴うようなら、どうにかして血を吸って今回の事は忘れるように暗示をかけるしかないと思った。

可畏はアクセルを踏みながら、さっき思い出した未祥の声がまだ耳の奥に残っているような錯覚に囚われた。あの声でもう一度、俺の名を呼ぶことはあるのだろうか。今朝この腕に抱き寄せた細い体は、もう弟のものなのだ。なるべくそのことを自覚しないように努めてはいたが、隙をついて忍び込む抗い難い現実に、ハンドルを握る手につい力が入る。アクセルだけは踏み込まないように気を付けて、車をアパートの狭い駐車場に停めた。

気を失った志門を部屋まで担ぎ上げるのは光の役目になった。赤鬼の体は逞しく、力仕事に向いている。その上光は、天夜叉として空に浮くことも可能なのだ。夜衆の長兄だけに引き継がれる天夜叉の力。そして羅衆の長兄には速疾鬼の力が与えられる。でも父はその力を可畏に引き継ぐことなく死んでしまった。それなのに、ずっと離れて育った弟に何故速疾鬼の能力があるのか……。

可畏の大型ベッドに志門を寝かせ、いつ目覚めても分かるようにドアを開けたまま隣の居間に一同は集まった。裕生は勝手知ったる台所で、さっさとコーヒーメーカーに水と挽き豆をセットしていた。コポコポ音を立てていい香りが部屋に漂う中、居間の小さなテーブルの前に、大柄な男二人と裕生が腰を下ろした。

「質素な暮らしをしているな。比丘尼が一緒なら相当な恵み≠ェあったはずだろう? それともあれは刀利村のみ有効なのか?」

光が部屋を見回しながら言う。安普請のアパートの居間に置かれているのは、テレビと書棚、その上にノートパソコンがあるだけだった。機能的だが華はない。

手のひらに乗るくらいの小さな男雛と女雛の雛人形が、ノートパソコンの横にちょこんと飾られているのが、この部屋に住む女の子の存在を思い起こさせるものだった。