第二十話

志門は目だけで周囲を見渡した。
この辺りは住宅街のど真ん中で、日中はあまり歩いている人がいない。可畏という未祥ちゃんの親戚のお兄さんが、この死体をどうするつもりなのか知らないが、これは立派な殺人だ。警察を呼ぶべきだろう。

その時、倒れていた猿男のからだ全体がじわりと縮んだように見えた。可畏に頭を踏まれたまま、うつ伏せで両手をアスファルトの上に投げ出している男の指先が、先端からジワジワ黒く染まっていく。

見つめる志門の前で、男のからだはどんどん小さくなっていった。男の頭に乗っていた可畏の足も、ゆっくり地面に向かって降りていく。

男の着ていた服が形を失い、両手両足を広げた状態で置かれた、乾いた洗濯物のようになった。可畏の足の裏が完全に地べたについた所で志門の手の力が抜け、未祥と裕生はもう一度すぐそばで起きている出来事を見ることが出来た。

裕生は勢いよく顔を振り上げ、未祥は恐る恐る志門の胸元から離れた。
「……なにこれ」と裕生が言った。裕生の目には地面にある持ち主を失った服と、スラリと背の高い未祥の同居人が見えただけだった。

未祥にも同じ光景が見えたが、可畏の足元をよくよく見てから、また小さな悲鳴を上げた。そこには男の頭も、体そのものも存在しなかったが、黒くドロリとした液体のようなものがアスファルトに染み込んでいるのを見てしまったのだ。

「これは多聞の当主だよ。やっぱりこいつは人ならぬものに成り果てていたんだ。死んだ後綺麗に霧散することも出来ないとはね。妖怪並みの悍ましさだ。ずっと村人を虐げて来たのだから当然かもしれないけど」

可畏は自らの足元に横たわる、多聞一族当主の死体とすら言えない残骸を、冷たい目で見据えながら語った。

志門は全身に鳥肌が立つのを感じた。この可畏という男は、例え相手が人間以外の生き物だとしても、意思を持つ存在を足で踏み殺したのだ。そして自分が一つの命を奪った事を、さしたる問題ではないと思っているように見える。

「未祥、こっちへおいで」

可畏が優しく微笑みながら、未祥にもう一度手を差し出した。愛しい可畏の笑顔を見て、未祥は胸が締め付けられるくらい強い喜びを覚えた。

毎朝晩、密かな恋慕を抱きながら見つめ続けてきた可畏の顔。異国の血が混ざっていると誤解される美しい顔。その顔が、全身が、今まで目にしたどんな瞬間より輝いて見える。手を差し伸べる可畏に吸い寄せられるかの如く、未祥は足を踏み出す。

あの腕に抱かれたい。息も止まるほど、力強く抱きしめられたい……。
今、どうにもできないほど可畏を求めている自分がいる。

不意に腕を掴まれ、未祥は一歩引き戻された。自分を引き留めた相手に目をやって、未祥は出掛った言葉をのんだ。本当は抗議の声を上げるつもりだった。離して、早く可畏のところに行かせて、と。

でも未祥の腕を掴む志門の顔は、青ざめ、強張っていた。そこにあるのは、好きな子が目の前で他の男に駆け寄ることを阻止しようとする嫉妬の表情ではなかった。

──恐怖=B
ただその一字のみ。

「未祥」と優しい可畏の声が掛かる。 未祥は志門の手をゆっくり振りほどいた。
志門が何を危惧しているのか分からないが、未祥は可畏の言葉に逆らうことは出来なった。

ごめんね、と口の動きだけで志門に謝った。志門が息を止めて見守る目の前で、未祥は可畏に駆け寄り、広げられた腕の中に入った。

「君は特殊な能力があるみたいだね。お蔭でとても助かった。感謝するよ」

未祥を抱き寄せ、その髪を撫でながら可畏が言う。未祥は可畏の胸に顔を押し当てている。 可畏はそっと未祥を離すと、未祥の頬に手を当てた。未祥が可畏を見上げる。可畏は未祥の顎に指をあてがい更に上向かせた。

志門は自分がどうしてこんなに悪寒を感じるのか分からないまま、可畏が未祥にくちづける瞬間を、裕生と並んで見ているしかなかった。





「うわっ!」

覚夜光の叫び声と同時に、可畏は車のブレーキを踏みこんだ。ビリビリと震えが走る腕に無理やり力を入れてハンドルを左に回し、何とか道端に車を停車させた。

車は既に住宅街に入っていた為、後続車はなかった。可畏はどこにも車をぶつけなかったことにホッとした。光のように叫び声を上げはしなかったものの、全身に電気が走ったのかと思うほど、酷いしびれに突然襲われたからだ。

「ちくしょう……。今のは呪縛≠セ。さっきやっと解けたと思ったのに」

光が混乱と困惑が入り混じった声でつぶやくのを聞いて、可畏はハンドルを握りしめたまま力を抜くことが出来なかった。

数分前に、一度多聞の支配から解放されたのが分かった。長い間に慣れてしまった呪縛の感覚が一気にほどけて、生まれて初めて重荷を降ろしたような感覚を味わった。でもそれもつかの間のことで、今度はまた新たな束縛を精神に感じる。可畏は自分の手の汗でハンドルがぬるりと滑るのが分かった。

「……どういうことだ? 今の多聞の当主が死んで……また新たに戟(げき)を手に入れた奴がいるということか?」

「考えたくないがそうだろうな。多聞は俺ら鬼より、よほど立派な鬼といえる鬼畜どもだから、また当主が自分の子供に殺されたのかもしれん。既に呪縛が始まっているのを見ると、次の戟の持ち主は比丘尼に会っていることになる」

可畏の質問に答えた光の声は、苦々しく車内に響いた。
さっき大学の校舎の中で聞いた光の話が頭をよぎる。比丘尼の夫≠ノなる人物は、戟と呼ばれる金の棒を手に入れた後、比丘尼が十六歳になるまでに口づけを交わす必要がある、と光は言った。比丘尼と口づけをすることで、彼女の夫としての権利と、鬼を使役する資格、そして……比丘尼と交接¥o来る唯一の存在になると──。

可畏は低く呻いた。間に合わなかったのだ。未祥は既に、新たな夫≠フものになった。そう思っただけで胃に氷を詰め込まれたと思うくらい、体が冷たくなる。

何故一時的にでも、未祥を刀利村に返そうなどと思ったのか……。未祥が先代の祥那のように──いや、何百年もの間生まれ変わり続けてきた比丘尼達のように、薄汚い多聞の性奴隷になることを、俺は本当に望んだのか? 

プラトニックでも、生涯交われなくても、未祥を守り続けていけば良かった。性の喜びを感じる方法など、いくらでもある。未祥が嫌がらなければ、どんな方法を使ってでも歓喜に導くことは出来るだろう。

どこかに逃げて……二人だけで──。
どうしてもっと早くそうしなかったのか。

光はまるで自分もどこか痛くてたまらない部分があるような悲しげな顔で、ハンドルに突っ伏している可畏を見つめていたが、「とりあえず、行こう。アパートは確認しておいた方がいい」と静かに声を掛けた。

可畏はゆっくり顔を上げると、右にウィンカーを出してアクセルを踏んだ。