第十九話 *

三人は目の前に立つ人物を見て、立ち止まった。校門を出てから、未祥の家に向かう道の半分辺りまで来ていた場所だ。

その言葉を言った人物を見た時、最初は子供だと思った。百五十八センチの未祥から見ても、視線を下にさげなければならなかったからだ。でもその顔を見て、未祥は一瞬でもその男を子供だと思った自分を笑いたくなった。

身長こそ低いものの、男の顔は成人した男性のものだった。目じりに皺があるのを確認して、大体五十代半ばくらいか、と目測をつけた。

「俺のひいさま。おひいさま、きれい」

男はニヤニヤ笑いを顔に張り付かせたまま言う。男の視線は真っ直ぐ未祥を見つめている。どこかで見た顔……そう、教科書だ。歴史の教科書で見たペキン原人の絵に似ている。 未祥は背筋に冷たいものが走るのがわかった。

この顔……怖い。会ったことないはずなのに、得も言われぬ恐怖を感じる。背筋から這い上がった冷気が、背中から心臓に浸み出してくるような気がした。未祥の脚は自覚がないまま震えだした。

「……まぁなんてデッサンの狂った顔!」未祥の隣で裕生が囁く。
「お前、相手のルーツを全否定すること言うなよ」

志門が呆れた声で返したが、その眼は視界の男を鋭く観察していた。

こいつ……なんだ?
何か持っている。棒のような小さな……あれは──

突然、志門がその男を突き飛ばした。丁度みぞおちの辺りを片手でドンと突いたのだ。

志門の動きの素早さに、未祥も裕生も固まったまま動けなかった。その男も滑らかで音のない志門の見事な攻撃に、全く無防備な状態でまともに突きを食らったらしい。男がドサリと倒れる音が聞こえた。でも志門が目の前に立っているので、二人から見えなかった。

未祥と裕生は急いで志門の隣に向かう。男は尻餅をついた姿勢で、片手で胸元の前身ごろを掴んでいた。その目カッと大きく見開かれ、何もない虚空を凝視していた。

「う……げぇっ」

男は急に苦しげに横向きに倒れた。今度は両手を自分の腹に持っていき、全身をガクガクと震わせ始めた。未祥は目前に体調の悪そうな人がいるのに、咄嗟に動くことが出来なかった。ただ口元に手を当てて、息を飲んで男の様子を見ていることしか出来ない。志門もじっと男を見つめ、裕生は腕を組んで目の前の光景に見入っている。

「ううぅ……ぉげえ」

猿地味た顔に苦悶の形相を浮かべ、男は腹を抱えて膝立ちになった。硬直した三人の目の前で男はもう一度低いうめき声を上げると、その口から何かを吐き出した。未祥は最初、男が食べ物を吐瀉するのかと思った。でもカシャンという音を立ててアスファルトの上に吐き出されたのは、金色の小さな棒状の物だった。

長さは二センチくらいで楊枝ほどの太さのそれは、男の唾液にまみれていたものの、キラキラと輝いて見る者を魅了した。太陽の光に反射して輝いているというより、それ自体が光を放っているように見える。

未祥はふと、あたしのピアスみたい、と思った。未祥の右耳に張り付く玉ねぎ型の小さなピアスも可畏の結界の効果がなくなると、この棒のように勝手にキラキラ輝くのだ。

「このぅ……お前、何したか」

ハァハァと荒い息を吐きながら、地面に跪く猿顔の男がつぶやいた。今度は真っ直ぐ志門を見ている。男は一度キリキリと音を立てて歯を食いしばると、自分が吐き出した小さな棒に手を伸ばそうとした。

いきなり──

それは本当にいきなり起こった。猿男の指が後一センチで金の棒に届くという時、パッと地面から棒が消えた。ジャリ、とアスファルトを靴で踏む聞きなれた音が三人の耳に届く。

新たにその場に登場した人物は、まるで魔法のように現れた。どの方向から来たのか、どんな風に近づいてきたのか、全く分からなかった。
志門は胃の腑が縮み上がるような恐怖を覚えた。

感じなかった、気配を全く。
神使(しんし)である烏の血を引くこのオレにも──

「おっと、今度はイイ男!」また裕生がつぶやく。
「……可畏」と未祥が言った。志門は未祥が名を呼んだ男を改めて見つめた。
この人が可畏さんか。未祥ちゃんと一緒に住む、親類のお兄さんだという……。

「未祥。良かった、無事で」

可畏は柔らかく微笑むと、未祥に向かって手を広げた。

「このぅ返せ!」

掛け声と共に、地面に膝を付いていた猿顔の男が可畏に向かって飛びかかろうとする。志門は即座に一歩前に出た。でも志門の出番はなかった。可畏は男を長い脚で蹴りつけた。可畏の靴先が男の腹にくい込む。「ウゲッ」と言って前のめりに倒れた男の頭を、可畏の足が容赦なく踏んだ。

ゴリ……という音を立てて男の顔がアスファルトに押し付けられる。男は手足をばたつかせ、苦しそうに呻いている。未祥はそのあまりの酷さに小さく悲鳴を上げた。

「可畏、だめ……やめて」と止めに入ろうとした。
「大丈夫だ。こいつは人間じゃない」

言った途端、可畏は男の頭から足を離すと今度はその足を大きく踏み上げ、一気に下ろした。「やめろっ」という志門の言葉が終わらない内に、可畏の足は男の頭を全体重をかけて踏みつける。志門は咄嗟に、未祥と裕生の頭を、両手を使って自分の胸元に抱き寄せた。二人が凄惨な現場を見ないように視界を塞ぐ。

未祥の耳にゴキ、という鈍い音が届いた。次いで「ゴブッ」と何かを吐き出すような音。目を閉じられなかった志門の目の前で、頭蓋骨を潰された男の血がアスファルトに広がっていく。もがいて自分も見ようとする裕生の頭を強引に押さえつけて、志門は可畏の表情を見た。

多分、人ひとり殺したはずなのに、可畏の顔は冷静だった。いや違う、と志門は自分の考えを訂正した。可畏の顔は喜色に満ち溢れていた。無表情を決め込もうとしているのに、どうしても口端が上がってしまうのを抑えられないように見えた。志門は背中に冷や汗が伝い落ちるのを感じた。

血の匂いがする。
この可畏という男には、踏みつけにしている猿男とは違う人間の血の匂いがこびりついている。