第十三話

「貧血?」

未祥はきょとんとして裕生を見返す。もちろん未祥はそんな話は知らなかった。母親からご近所の話を聞く、ということも未祥には実感の湧かない遠い世界の話のようだ。

「小学校高学年の子がね、貧血をおこして倒れて学校を早退したり、休んだりしてるらしいんだ。それも結構重症で、意識がなくなっちゃう子もいるんだって」
「意識が?」

「うん。その子たちみんな塾とか習い事とか、外に出た後帰ってきてから様子が変になるらしいよ。ぼんやり帰って来て、そのまま寝込んじゃう。次の日にはちょっと元気を取り戻すみたいけど、塾の帰り道の事とか覚えてないんだって。
それまでいた場所を出たとこまで覚えてるんだけど、帰り道の途中の記憶がないそうだよ。誘拐事件とかじゃないから、ニュースにはならないけどさ。症状が同じだから、ママさんたちは怖がって必ず送り迎えするようになったって」

記憶がない、と聞いて未祥は可畏の吸血の事が頭に浮かんだ。血を吸われた人間は確かに意識が朦朧とするし、吸われた時の事は覚えていない。

まさか可畏が……? と一瞬疑ったが、可畏は子供からは絶対血を貰わないと言っていたのを思い出す。大人の血と違って子供の血液は鬼に強力な力を与えるが、吸われた子供の方は一時的に重篤な状態になり、最悪の場合死に至る場合もあるからだ。可畏がそんな危険な事をやるわけがない。

そうすると可能性は……他の鬼だ。

「その事が、さっき志門が言ってた外からの視線と関係があるかどうかは分からないけど、なんとなく思い出したから話したんだ。余計不安を煽ったらごめん」

「ううん、そんな事ない。そういう情報って新聞とかテレビじゃ出てこないもんね。聞いて良かった。何だか怖いし、気をつける。裕生ちゃんも気をつけて」

そこでちょうど、教師が入ってきた。裕生が慌てて前を向く。
未祥は背中に悪寒を感じながら、教科書を広げた。







可畏は男子トイレの洗面台で手に泡立てた石鹸を流した。鼻にまといつく女の体液の匂いが軽くなって、少しだけ罪悪感も薄まった気がする。

ふと可畏は、そういえばあの女の名前も聞かなかったな、と思い立つ。仮にもお互いの欲望をぶつけあった相手なのに、一度も名を呼ぶ事もなく終わった関係。排水口に吸い込まれていく白い泡を見ながら、可畏は苦い笑みをもらした。どちらにしても名前など聞いたところで直ぐに忘れてしまう。

俺が繰り返し名を呼びながら包まれたい相手は一人だけだ。
それ以外はただの情報でしかない。

それにこれからはあまり、人間から血をもらう必要もなくなるだろう。明日から未祥は自分で結界を張れる。可畏が人から血をもらって力をつけて、未祥の輝き≠隠す必要はなくなるのだ。

可畏は濡れた手で自分の髪をかきあげた。そのまま洗面台の上にある鏡に目をやる。剛(こわ)い髪から水滴がひとつぶだけ落ちた。黒に近い灰色の髪はほんの少し青みを持つ。

「青鬼さん」と先代の比丘尼、祥那(さちな)が呼んでいたのを可畏は思い出した。美しい祥那に母は嫉妬し、父は人生の全てを掛けた。

父が命をかけて貫いた自らの愛を、俺が無意味なものにしてしまうのだろうか……と可畏は考える。

すがりつく祥那の手を振り払えず、ただ一夜のみのつながりに溺れ、愛する人をなくした。父はそれで幸せだったのかもしれないが、俺は無理だ。面影だけしか残らない未祥の残像を見ながら生きて行くことなど、到底考えられない。

俺はこれ以上、未祥と一緒にはいられない。
一緒いたらいつか──思いを押さえきれず、未祥を抱いてしまうだろう。
それだけは絶対に避けなければ……。

やはり未祥は村に帰るのが一番いい。十六歳のままの、美しいままの未祥は、一般社会で生活するのは不可能だ。未祥を刀利に返したら自分は未祥の前から姿を消す。そして遠くから未祥の幸せを祈っていこう。

村に戻る事で未祥は奴隷になるだろう。俺とは違う、一方的な愛の奴隷になってしまう。それでもこの世界で未祥が未祥のまま生きていくためには、刀利村での理解と庇護が重要な役目を果たすはずだ。

三階の廊下を歩きながら、可畏が頭を振って暗い思考から逃れようとした時、窓の向こうに影が揺れるのが見えた。
可畏は咄嗟に身構え、窓を見る。可畏の目の前に有り得ない光景が映った。

三階の窓の外に、若い男が浮いている。

可畏が愕然と見つめる中、窓の外に浮かぶ男がガラスを叩いた。
どうやら開けろということらしい。

可畏は周りに人間の気配を感じてはいなかったが、とりあえずサッと辺りに目をやってから窓を開けた。外にいた男は窓枠に手をかけると、音もなく廊下に降り立つ。男と一緒に冬の冷たい空気が屋内に入り込み、可畏の青灰色の髪と白い頬をひんやりと撫でていった。

目の前に立ったのは、赤黒い髪と太い眉を持つ背の高い男だった。自分に結界をかけているのか、それほど匂いはしなかったが、どうも結界のかけ方があまり上手くないらしい。可畏の鼻に鬼特有の干し草のような匂いが少し届く。

「……天夜叉(てんやしゃ)」と可畏はつぶやいた。