第十一話

本当に好きな女の子か……。
可畏は朝、未祥の唇が触れた頬が、またくすぶるように熱くなるのを感じた。

まさしくその通り。本当に好きで、好きで──それでも、決して手に入らない。

可畏は未祥を思いだし、一瞬伏し目がちになる。可畏の手に指を滑らせていた女が、今度はその手を包むように覆った。

「──ねぇ、好きな子の為に他の女に目を向けないって男の人って、すごく素敵だと思うけど、でも時々は息抜きも必要だと思うの。こんなこと真面目な覚羅くんに言っても心に響かないかもしれないけど、女の子はたくさんいるわ。もちろんとても大人で、傷ついた男性を優しく包んであげられる女性もね」

女は首をかしげて可畏を切なげに見つめる。耳につけられた、動くと揺れるルビーのピアスが食堂の蛍光灯の光に反射して薄く煌めいた。

自分がその大人の女性≠フつもりなのだろうか。可畏はこの口の上手い女を珍種の動物でも見るような気分で眺め直した。

結局のところ彼女は、俺との刹那的なセックスを楽しみたいだけなのだ。
「本当に好き」だの、「他の人に目を向けない」だの、綺麗なエッセンスをふりかけることで自分の欲望をありがちな悲恋のドラマに変えようとしている。

それでも──ただのオスとメスとして交わるだけよりいいのだろうか。その体のみのつながりに、胸苦しくなるような要素が少しでもあれば、例えそれが一時の性欲による男女の営みであれ、多少なりとも美しい思い出として残すことができると……?

可畏は女の手から自分の手を引き抜いた。女が一瞬落胆の表情を見せる。でも可畏が彼女の手に今度は上から自分の手を重ねたことで、女の頬はバラ色に染まった。

「……それなら、君が俺に教えてくれるのかな? 傷ついた男を慰める大人の女性のすべてを」





可畏の唇が首筋から離れたところで、女の体は弛緩した。崩折れながら意識を失った女の体が床にぶつからないように手を添えて、そっと体を横たえる。

史学部の資料室の、古い本の独特の匂いが鼻につく。普段は好きな香りだが、今は彼女の香水と男を求める女の匂いが本の匂いと混ざり合い、狭い部屋に充満している気がする。

可畏はなんとなく、自分が重要な歴史そのものを汚してしまったような、いたたまれない気持ちになった。こんな風に学校で女との行為に及ぼうとしたのは初めてだ。

資料室を選んだのは女の方だった。どうやら以前、他の学生ともここで短く甘い夢に浸ったことがあるらしい。
今回、可畏は血だけいただいて、女の中には入らなかった。でも女の方は完全な交わりよりももっと強い快感を味わったらしい。ブラは剥ぎ取られ床に落ち、透け感のある薄いレースのパンティも足首まで引き摺り下ろされている。

我ながら本気でやれば、立派なコマシ≠ノなれるな、と可畏は思う。キスはいつも通り交わさなかったが、巧みで激しく優しい愛撫に女は何度も高い声を漏らした。

この資料室は建物の一番奥に位置しているので、あまり人は来ないし鍵も閉めてあったが、それでもいつ誰が来るか分からない。悩ましげな声が廊下に漏れていたらまずいだろうが、女は誰かに聞かれるスリルを味わうことで興奮していた可能性もあるし、下手すると見られたいと思っていたのかもしれない。

可畏は舌と指だけで女を頂点まで導いた。それも一度だけではない。
可畏の予測通り女の感度はあまり良くなかったが、まだ他の男から引き出されていない女の性感帯を見つけ出すのも可畏の得意技の一つだった。

女が可畏にしがみつき、自分ではどうすることも出来ない快楽の放流に身悶えている時、次に可畏がする事を忘れるように暗示をかけ、首に歯を立てた。

可畏の歯は一般的な吸血鬼のイメージと違い、犬歯が伸びているような事はない。見た目は普通の歯なのに、首に吸いつくときだけ前歯の切れ味が鋭くなる。

人間の首は鬼が軽く噛み傷をつけただけで動脈から血が溢れてくる。その血を死なない程度に飲み干してから、舌で傷跡を舐めるとそこにはなにもなくなる。

今は学校で吸血行為に及んでいるため、眠気に襲われると困るのでいつもより飲む量を少なめにしたが、通常の場合でも人間は噛まれた痛みを感じないらしい。首筋は傷一つない状態に戻るから、本人も他人も血を吸われたことなど分からないのだ。

可畏は汚れてもいない口を手の甲で拭った。いつもそうだが性的な興奮を身の内に感じた後は、罪悪感を味わう。愛情を抱いていない女の体を借りて肉欲を満たすことは、恥ずべき事だという意識が自分の中にあるのが、この瞬間しみじみわかるのだ。

確かに今日は女とつながることはしなかったが、それでも柔らかな乳房を揉みしだいたり、陰部に指を這わせているときは、逃げることの出来ない欲求に支配され我を忘れる。体中の血液が全部下肢に集中し、愛も思考も停止してしまう。

もし本当に愛し合う女と、我を忘れて抱き合う事が出来たら、こんな虚しい罪の意識は消えるのだろうか……。

可畏は女の厚手のダウンジャケットを横たわる彼女にかけてあげた。暖房の入っていない資料室で胸をはだけて寝ていたら、病気になるだろうという配慮からだった。

女は目覚めた時、自分が誰とここにいたのか忘れているだろう。
覚えているのは、体を駆け抜けた強い快感だけだ。

可畏は今まで抱き合っていた女に一瞥もくれることなく、鬼特有の気配を全て消せるしなやかな動きで、静かに資料室を後にした。