第八話

未祥は傘をさしていても忍び込んでくる細かい雨に顔をしかめながら、学校までの短い道を歩いた。もうすぐ天気が回復するのか、起きた時よりあたりは明るく感じる。昨日の可畏と女との激しい攻防のせいで寝不足になってしまった目には、雨に遮られた鈍い陽ですら痛く思えた。

足を踏み出すたびに振動が頭に響く気がするのは、寝不足のせいだけじゃないかもしれない。朝の可畏の抱擁は、今頃になって未祥の体に痺れるような快感を与えた。外にあまり出ないからと、室内での筋トレを欠かさない可畏の引き締まったからだは、未祥の中にひそむ女としての性に火をつけた。

あの腕に抱かれるんだ。可畏がなんと言おうと……。もう約束を取り付けたもの、と未祥は勢いよく濡れた地面に足を踏み出す。雨雲の間から太陽がほんの少し顔を出したらしい。目に刺さるようなきらめきが未祥の周りを取り囲む。

「……千の天使がバスケットボールする」

昔聞いたことのある詩が口をついて出た。千人の天使がバスケをするなんてどんな音がするだろう。そう思った時、「天使?」と後ろから声を掛けられた。

驚いて顔を向けると、烏川志門がすぐ後ろに追いついていた。「おはよ、未祥ちゃん」と爽やかに笑いかけてくる。烏川くんはいつもこうだ、と未祥は思う。可畏と同じくらい、近づく気配を感じない。

「おはよう。今日は遅いのね」と未祥は挨拶を返した。烏川志門はそれこそバスケ部で、いつも朝練に出ていて登校時間に会うことは少ない。

「ああ、今日は朝練がないんだ。うちの部は人数が少ない弱小チームだから、先生も全然熱心じゃないんだよ」

烏川志門は未祥の横に並びながら言う。身長は可畏より五、六センチほど低いが、スっと斜め上に向かって引かれた両眉と、横に長く切れた目とそこに光る理知的な瞳は、女の子が騒ぐ十分な要素を持っていた。

何故こんな人が自分に好意を持ってくれるんだろう、と未祥は不思議に思う。確かに幼い頃から可愛い∞綺麗≠ニ言われてきた未祥だが目立つのは苦手だし、誰とでも仲良くなれる性格でもない。
たまたま入学当時席が隣になって、烏川くんがシャーペンの芯を切らしたから「もらえない?」と頼んでこなければ、今も話しをするようになっていたかどうか怪しいものだ。

「そんで、天使って何?」

口元に軽い笑みを浮かべながら志門は未祥に問いかける。星の輝きすら見えない新月の夜を思わせる黒髪と、同じ色を持つ瞳。志門はオレがカラスの家系だからこうなったんだ、と笑いながら未祥に語ったことがあった。

未祥は思わずまばたきした。志門の笑顔は一面に広がる水滴に反射する冬の冷たい太陽の輝きと同じくらい、眩しく感じた。一番好きなのは可畏の優しい笑顔だけど、志門の微笑みはまた違うときめきを未祥の心に忍ばせるのだった。

「えーとね……。確か中原中也の詩だったと思う。二日酔いの朝の心情みたいな。烏川くん、聞いたことない?」
「んー。残念ながら知らないな。あ、それと、オレの事は志門と呼ぶように!」

言ってから志門は、ゆるく握った手の甲で未祥の頭を軽く叩いた。未祥が困った顔で志門を見上げると、ニッと笑い返してくる。二ヶ月ほど前、付き合って欲しいと言われて断った時、付き合えないなら名前で呼んで、付き合えることになっても名前で呼んで、と畳み掛けられ、思わず笑ってしまったのを思い出す。

「ほらほら、言ってみなよ。回数をこなせば慣れるって」

耳に手を当てて、聞こえるように背をかがめた志門に、可畏に感じるのとは違う親しみを覚えて未祥は笑った。「……志門くん」と仕方なく言うと「はい、良くできました」と頭を撫でられる。

「朝からイチャこいてますねー」と急に声が掛かって、未祥はドキッとした。志門を気にしている女子は結構いる。名前で呼んでいるのを聞かれたら、何を噂されるか分からない。

「おはよー、未祥に志門。ねぇ未祥、後でブラシ貸して」

後ろから追いついた声の主を見て、未祥は緊張を解いた。長い髪に櫛も通さず登校してきたのは、未祥の唯一の親友、神堂裕生(しんどうゆうき)だった。









<文中引用>
「宿酔」 中原中也詩集(岩波文庫)より抜粋