第七話

未祥が出て行った玄関のドアを、可畏は呆けた顔で見つめていた。
未祥の唇の感触が残る左の頬を手で軽く押さえる。

バラの花びらのような愛らしい未祥の唇。白い肌によく映える、桃色のふっくらした唇が柔らかく触れた自らの頬は、抑えきれない程の熱さと、絶望的な冷たさを同時に発しているような気がして、ジンとした痛みを可畏の神経に響かせた。

可畏は頬に手を当てたまま、ふらつく体を支えるためにアパートの薄い壁に寄りかかった。 父が死んで以来この四年間、結界を張ると称して毎朝未祥の唇を奪い続けてきた。

あんなやり方をしなくても、本当は結界を張ることが出来る。実際父が未祥に結界を張るときは印を切った後、自分の唾液を少し未祥の額につけるだけで済ませていた。

可畏が初めて未祥に結界を張ろうとした時、自分の力に自信がなくて、意思を込めた息吹を直接口から送り込む方法をとったことは確かだ。結界を張ることに慣れてくればキスをしなくても済む。それが分かっていて、それでも膝の上でうっとりと自分の唇を受け止める未祥を見てやめることが出来なくなってしまった。

美しく成長し、徐々に膝の上の重さも、女らしい柔らかさも増していく未祥との朝の儀式で、そのまま深く口づけて押し倒してしまわないで済むことが出来たのは奇跡としか言い様がない。あの決まりごと≠ェなければとっくに実行していただろう。

──あの呪縛。多聞の支配。
そして比丘尼の「サイクル」が……。

二十二歳になる自分の体が、男としての成熟期を迎えていることが可畏には分かっていた。
鬼の身体は強く、精力的でもある。間近で感じる未祥の甘い香りや、男手で育てられた割には女らしい仕草や、もう少しで完全に熟れるであろう豊かな乳房を見ると、浅ましい程の欲望を身のうちに感じてしまう。

熱を放出しないことには、衝動的に未祥の全てを奪ってしまうかもしれない。血の補給の為でもあるが、可畏が女を抱くのは自分の中に湧き上がるオスの欲望を吐き出さずにはいられないからでもあった。

未祥の宝珠の力は、十六歳で完成≠キる。年々強くなる未祥の輝きを抑えるパワーをつけるには、人間の血を飲むのが一番手っ取り早かった。初代の鬼は血だけではなく肉も食らったと聞くが、可畏は人肉を食べたいと思ったことは一度もなかった。普通の食事でも充分生きていけるが、血を補給した身体は内側から力が溢れてくる。

女を抱いて、肉体のみの欲望を相手に叩きつけながら血を吸い、暗示をかける。女は帰宅したらそれまで何をしていたかも、どこにいたかも、全部忘れてしまう。問題は簡単についてくる女を見つけることだが、嗅覚の鋭い鬼は肉欲を求める女を嗅ぎ分けるなどたやすいものだった。

白ロシア人との混血を思わせる整った顔立ちも、女を誘うには有用だった。酒の席で少しの微笑みを浮かべるだけで、そういう女はすぐに後をついてくる。

最初は自宅ではなく、外で女を抱いていた。女に言われるまま相手の部屋に行ったり、ホテルを利用したり。
しかし、鬼は血を吸って満足すると強烈な眠気に襲われる。数時間その場で眠りにつくことで、未祥を一人にする時間が増えるのが、可畏には許せなかった。その為、近頃はもっぱらアパートの自分の部屋でコトに及んでいる。

いや……、本当は違う。
きっと俺は、未祥に聞かせたいのだ。女を連れ込み、自室で過ごすのは血の補給の為だと未祥に伝えてあるが、部屋で可畏が女と何をしているのか、未祥が知らないとはさすがの可畏も思わない。

未祥が自分に寄せる視線が、以前よりずっと「女」を帯びてきていることを自覚してから、自分は未祥を性的な対象として見ていないと言う事を分かってもらうために、わざと女を激しく責め立てるようになった。未祥が隣の部屋で、可畏と女とのむつみあいを聞くことで、自分に絶望して欲しいと心のどこかで願っているのだと思う。

キスを交わすこともせず、己の欲望のみを打ち込むだけの女とのセックス。でもどんな時も可畏がほとばしる熱情を突き入れているのは、未祥だけだった。

目を閉じて、荒い息を吐きながら声に出さず未祥の名を呼ぶ。女はその逞しさと激しさに酔いしれて、今までもこれからも味わうことのない快感の中で力尽きるが、可畏には虚しいだけだった。

この腕に抱けたら……この体にある熱と欲と──何より愛そのものを未祥に注ぎ込む事が出来るなら、どんなものでも差し出すのに……!
でもそれは出来ない。実行したら最後、未祥は未祥でなくなる。

「プラトニック・ラブか……」

可畏は低く、自嘲気味につぶやいた。未祥の唇の感触が左の頬から薄れていくにつれて、今まで意識の奥に隠しておいた決意がゆっくりと固まっていくのが分かった。

俺は離れる。未祥から……。
そして鬼の使命として遠くから天女を見守っていく。

可畏は自分の胸の中心に手を当てた。乳児の未祥をこの腕に抱いた時に落とされた象の印。 ホクロほどの小さなそれはここにある。

そう、これは烙印なのだ。
求めても決して交わらない宿命を持つ、愛の奴隷となる為の──