第六話

未祥は可畏がキスをするのかと思った。結界を張るのとは違う、本気のキスを。

でも可畏は、さっきよりもっと悲しみを込めた瞳で未祥を見つめ、その目をギュッと閉じると未祥の頬から手を離し、後ろを向いた。

「弁当を作る時間がなくなったな。購買で何か買ってくれ。今、金を取ってくるから」

そう言うと、台所から出て自分の部屋に行ってしまった。未祥は追いかけて、可畏に本当の事を、自分が知らない刀利村に関する全てのことを聞きたいと思ったが、部屋の奥に消える可畏の背中があまりに寂しそうなので、何も言うことが出来なかった。

こんな風に頭が混乱しているときは、いつもしていることを淡々とこなせばいい。汚れた皿を洗うことには、大して頭は使わない。未祥は機械的に手を動かした。スポンジを濡らして洗剤を含ませ、泡を立てて……。
お弁当を作る時間は本当になさそうだ。蛇口から出てくる水に押し流される泡を見ながら、未祥は日常≠こなして行く事に集中した。

歯磨きをして、部屋でコートを着て、鞄を持って玄関に向かうと、やっと可畏が部屋から出てきた。可畏が自分の財布から一万円札を抜き取る。未祥はなんとなく怖くて可畏の顔が見られなかった。

「こんなにいらないよ。ランチに一万円使う女子高生っている?」

可畏の手元とお札だけ見て未祥は言った。

「細かいのがないんだよ。昼飯を買ったら残りは好きに使っていいから」

未祥は可畏の手からお金を受け取ったが、「残りを好きに使う」機会が自分にあるのか疑問に思った。今までだって買い物にも極力出ないように過ごしてきたのだ。食材や日用品は宅配がほとんどだし、洋服はネットでクレカだ。
たまに買い物に出ても、可畏が周りを警戒するあまり落ち着かないので、必要なものだけ買ったらすぐ帰宅する。勢い、友達付き合いも悪くなる。だから自分と自然に口を聞いてくれる烏川志門は、未祥にとって貴重な友人なのだ。

「……ありがと。じゃあ行ってきます」

財布にお札を仕舞うと、未祥は可畏に言った。今日の大学の講義は二限目からなので、未祥より可畏の方が家を出るのが遅い。

「未祥」

傘を持って玄関を開けた未祥の背中に、可畏が声をかける。未祥は振り返り、さっきから見ないようにしていた可畏の顔を見た。可畏の瞳は、台所で見た時と同じ悲哀を抱えたままだった。

「──ごめんな……」

そぼ降る雨の湿度のせいか、可畏の声は重く湿って耳に沁みた。未祥は可畏の謝罪に最初は気落ちし、その後怒りを覚えた。
理由も何も教えてくれないまま、謝るなんてどうかしてる。
未祥はある決意をして可畏を真っ直ぐ見つめた。思い切って息を吸い込むと、可畏から約束を取るためにその言葉を伝えた。

「悪いと思ってるなら、あたしのお願いを聞いてくれる?」

可畏は一瞬警戒の視線を寄越したが、未祥の瞳が強い意志を持って見返してくるのを見て、気圧された。そこには自分の意志≠持つ一人の少女がいた。覚羅聡と共に刀利村から逃げ出した、先代の比丘尼にはなかった自己≠持つ視線。

「……わかった。きくよ」

数秒のためらいの後、可畏は答えた。未祥は普段あまり自分の思いを強く人に押し付けることをしない。誕生日のお願いも聞き入れてやらなかった。ここは受け入れるべきだろう、と今回は承諾することに決めた。

「どんな願いだ? 俺に出来ることなら何でもしてやる。約束するよ」

未祥は心のどこかで、可畏の返事が意外だったが顔には出さなかった。本当の願いを聞いてもらう。あたしが望む、真実の今の希望を。

「今は……言えない。でも絶対、絶対、聞いて欲しいの。あたしが何を言っても、断ったりしちゃダメ。黙って聞いて──叶えて。それが出来ないなら、謝ったって赦してあげない」

可畏が自分に何を謝っているのか良く分からないまま、未祥は強気で言った。可畏は一度約束したことは破らない。自分は卑怯なことをしているのかもしれない。可畏があたしに悪いと思っている感情につけこむなんて……。
でもあんな悲しい瞳で見つめられて、理解できない事を突然告げられて、俺が悪いんだと一方的に謝られて──、未祥は恐れを抱かずにはいられなかった。

可畏は……、可畏はまるで──あたしから離れてどこかに行ってしまおうとしてるみたい。

ひたむきな視線を向ける少女の瞳には、うっすらと涙の膜が張っていた。
未祥のこれほどの懇願を拒絶する事が、どうして俺に出来る? 
昔から未祥の涙には屈服してしまう。それが比丘尼を守る鬼としての習性なのか、心の奥底に秘めた未祥への想いから来るものなのか、可畏自身にも判別できなかった。

「約束、して」

涙目で、言葉を区切って未祥は言った。ダメ押しで確認を取る。可畏がその時≠ノごまかしたり、拒否したり出来ないように。

「……約束するよ」

少し微笑んで、可畏は未祥に言った。落ち着いた声。
まただ、と未祥は思う。困った妹を宥めるお兄さんの図……。

でもこれで可畏はあたしのお願いを聞き入れてくれる。
未祥は急に気持ちが明るくなって、衝動的に可畏に飛びついた。 可畏の首に腕を回すと、思い切り背伸びをしてその頬に唇を押し付ける。

ハッと息を飲んだ可畏から手を離すと、「行ってきます!」と大きな声で言って玄関を走り出る。勢いよくドアを閉めたあと、アパートの階段を一気に駆け下りた。

やっと自分の気持ちを少しだけ可畏に伝えられた事を、誇りに思いながら。