第二話

朝の光は鈍く、寒々としていた。
カーテンを開けるとそぼ降る雨が外の風景を柔らかくぼかしている。

細かい雨は嫌い、と未祥は思う。傘をさしていてもどこからともなく雨が体にまとわりついて、いつの間にかコートがしっとり濡れてしまっている。十五歳最後の日を嫌いな雨で締めくくらなければならないなんて、サイアク。

学校指定のカーディガンに手を通してから、未祥は鏡を覗き込む。背中の半分あたりまで伸びた髪は、特に結い上げたりせず、無造作にばらしてある。 耳元を見えないように工夫しているのに、顔の右側だけがキラキラ光っているのが良くわかった。

未祥の右耳たぶには小さな石が埋まっている。ピアスではない。
透明感のある薄桃色の石が、耳たぶに張り付いているのだ。

これはお風呂に入っても、こすってもほじっても、取れない。 耳の後ろに突き抜けているわけでもないのに、何の留め具もなくそこに存在する。 五ミリ程の大きさの小石は、毎日可畏に結界を張ってもらわないと、勝手に輝いて自己主張をするから困るのだ。

それにこの石、玉ねぎみたいな形でビミョー、と未祥は思う。 どうせなら普通の丸とか、可愛くハートとか、かっこよく星型とかなら良かったのに。

コンコン、と部屋のドアをノックする音がした。「はぁい。起きてます」と未祥は答える。 即座にドアが開いて可畏が入って来る。 一八六センチの可畏が六畳の部屋に入ると、床面積も空間も、グッと縮まる感じがする。

「おはよう」と言った可畏を、「おはよ」と返して未祥は見上げる。 冬の朝のしずんだ光に照らされた可畏の顔は、鬼というには柔和で優しい。 可畏の先祖は、未祥の故郷でもある刀利村で一番の美しさを持つ家系だと聞いた。

その昔、村の長である与平の娘お雪が、山から降りてきた鬼神に見初められたのが、覚羅(かくら)家と覚夜(かくや)家、鬼の一門の始まりだという。

可畏は見上げる未祥の目の前で、手を組み合わせ、複雑な形に指を絡ませた。 そして次々に絡める指の形を変えていく。数度それを繰り返したあと、一度目を閉じて最後の印を組んだ姿勢のまま、ゆっくり息を吸い込む。

それから息を止め、可畏は未祥が先刻まで寝ていたベッドの前に移動し、そこに腰を下ろした。 ギィ、と音を立てて、大柄な可畏の重みにベッドが抗議の声を上げる。

未祥は黙って座った可畏の膝の上に乗った。 可畏が十八、未祥が十二歳の頃から毎朝この結界を張る°V式をしてきたけど、最近の未祥は可畏の逞しい体を意識して、頬が赤くなるのを止められなくなっていた。

膝の上で大人しく可畏の肩に頭を預けた未祥の顎を、大きな手がそっと上に持ち上げる。未祥は目をつむりそれを待った。 可畏の唇が未祥の唇に重なる。

もし、この二人の姿を数歩離れて見る者がいたら、寄り添いながら口づけを交わす恋人同士にしか見えないだろう。 でも未祥はこのキスに、恋愛感情が全くないことを知っていた。 これが未祥を見えなく≠キるための、可畏の結界の張り方なのだ。

そろりと可畏の息が口から喉の奥に忍び込む。未祥は体が震えないようにするのが精一杯だった。 顎に添えられた手が、もっと下まで動かされる事を想像して、また体が熱くなる。 知らず知らずのうちに未祥の手が可畏の胸元のセーターを掴む。

少しでも可畏の息が、昨日の夜のように乱れてくれないか、それとももっと苦しくなるほどの口づけをしてくれないか、と淡い期待を抱いたものの、それは後に落胆に終わった。

可畏は吸い込んだ息をすべて未祥に吹き込むと、何事もなかったように唇をスっと離す。 そして未祥の右側の髪を軽く後ろに払うと、結界の効果を確認する。耳たぶの石は輝きが消え、人の目には判別不可能な透明色になっていた。

未祥はいつもならすぐに可畏の膝から飛び降りて朝食を取るために台所に向かうが、今日は動きたくなかった。 あの甘える女の声が不意に頭に蘇る。

「終わったよ。大丈夫だ」と可畏は言ったが、未祥はそのままの姿勢でいた。

「……どうした?」と可畏が戸惑い気味に未祥に聞いた。 未祥は可畏の膝の上で身をよじると、可畏の首に腕を回した。最近Dカップに迫りつつある胸を可畏の胸板に押し付ける。

「またイヤミを言われたの」

未祥は本当の気持ちとは違う事を話題にした。 未祥が十二歳の時、可畏の父親が亡くなってから、学校での出来事を聞いてくれるのも可畏の役目になった。

最近の未祥の愚痴はもっぱら海原美恵の言動に対するものだった。 未祥は可畏が勉強を見てくれるお陰で成績は中の上だったが、その中でも現国が得意だった。 クラスメイトの海原美恵は他の教科はさほどではないものの、現国だけはテストで上位に来る。

その為いつも未祥と順位を争う事になるせいか、テストが返ってくる度必ず一言、言ってくるのだ。 未祥の方がいい点数だと「さすが天才は違うねー」と言い、悪い点だと「どうしたのぉ? 手抜き?」などと囃し立てる。 それを未祥一人に言うならまだしも、クラス中に聞こえる大声で騒ぐのだ。

返された答案用紙を未祥の分まで取り上げて、点数までみんなに晒す。 今回は一つだけ間違えた未祥の小テストを「見せて」と強引に取り上げ、正解の内容を解説し始めた。 未祥が聞いたわけでもないのに、自分が分かっていることをみんなの前でひけらかしたかったらしい。

後でじっくり間違えの理由を探ろうと思っていた未祥は、そういう彼女の行動に憤りを覚えた。 でも元来大人しく、引っ込み思案の未祥は一言も言い返すことが出来ず、ただ黙って海原美恵のご高説≠拝聴した。 そんな自分が情けなくて、つい可畏に愚痴をこぼしてしまうのだ。