恋する死神

最終話

「オレの真珠、返せ」

河童はそう言うと、またエルに突進した。エルは杖を両手で握るとそのまま腕を前に出す。そこでいきなりエルの杖にビョンと鎌が出てきた。エルの体半分はあろうかという大鎌で、一体今までどうやって隠していたのか不思議だった。

エルは鎌を横に構えると、河童に向けてなぎ払う。河童の胴体がスッパリ真ん中で切れ、恐怖のあまり目を閉じられなかったあたしの前で、河童は黒い煙になってゆっくりと宙に舞い散った。

エルは一つ息をつくと、あたしに被さる網を鎌で切りにかかった。大鎌が頭の上で揺れているのは怖かったけど、鋭い刃のおかげで網がバラバラに裂けた。あたしは真珠を抱えて網から出ると「ありがとう」とエルに言った。

「どうやら金と違って真珠は魔界の生き物にも認識されてしまうらしいな。あいつは誰かが真珠を取り出す機会を狙っていたんだろう。大事がなくて良かった」

出会った時よりかなり血色が良くなった顔で、安堵の笑いを浮かべながらエルが言った。心なしか表情も前より豊かになった気がする。あたしはドキンとした。エルの微笑みは、女の子の心を撃ち落とすのに十分な魅力があるものだった。

「ちゃんと真珠をしまっておけよ」とエルに言われて、大きな真珠をリュックに入れた。どっしりとした重量感がある。金は既に五十二個集めてるし、大収穫だわ。

道に戻ろうと出発したエルの杖を見ると、もう鎌はなくなっていた。例の黒く輝く長い棒に変わっている。

「ね、その杖の鎌って、ボタンを押すとワンタッチで出てくる仕組みなの? 傘だわ、傘! 鎌はジャンプ傘方式で出現するのね」

あたしが言うと、エルは嫌そうな顔で振り返る。「俺の力を人間界の発明と一緒にするな。これは一種の魔術だ」と返事をした。

そのまま道に出たけど、もうどうにも我慢できない、という感じでエルが笑い出した。あはははっ、と大きな声を出して天を仰いでいる。

あたしは驚いたけど、嬉しい感情の方が強かった。エルの雰囲気は最初と比べ物にならないくらい明るくなっている。手放しで笑うエルは元気な男の子みたいで、あたしの心臓の鼓動はときめきの躍動で早くなった。あたしも一緒に笑ったけど、もうすぐ来るエルとの別れを思うと急に苦しくなった。

エルの後ろを歩きながら、お姉ちゃんが「案内人にほだされた」理由が分かった気がした。塔に着くとそれが例え〝白〟の案内人であっても、人間は別れなければならない。お姉ちゃんは白の案内人を好きになったんだ。だから役目を投げ出して、彼と新しい世界に旅立った。

あたしはエルと別れたくなくなっている自分に気がついた。でも、朱雀の〝珠玉〟は後三つしかない。あたしが帰らなかったら、誰かが〝弦〟に入るには一年後の十月の弦月まで待たなくてはならないことになる。

三つの珠玉ではギリギリ一年持つか、持たないかだろう。もし朱雀が抑えきれないほどの大きな魔物が人間界に放たれたら、たくさんの犠牲者が出ることは確実だ。それだけは、朱雀家の娘として許してはいけない事態だと分かってる。

あたしが物思いに浸っていると、「着いたぞ」とエルが言った。顔を上げると、鬱蒼と茂る木々が突然途切れて、目の前には天を突く白い塔がそびえ立っていた。

「あれ……これってスカイタワーに似てる」あたしが塔を見上げて言うと「当たらずとも遠からずだ」とエルが言った。

「塔の管理者は新しモノ好きなんだ。塔の場所は変わらないが、形はコロコロ変わる事で有名だ。この塔が何のためにあるのか知ってるか?」

エルが憂いのなくなった黒曜石の瞳を輝かせてあたしを見た。あたしは胸が締め付けられるような思いを隠してエルの質問に答えた。

「お父さんは〝弦〟から出られるたった一つの出口だって」

「そうだ。ここで最後の試練を受けると人間は元の世界に戻れる。試練の内容は──分かるか?」

あたしが首を横に振ると、エルは少し言いにくそうに塔の中で行われる試練をあたしに伝えた。

「塔の中の階段を登って行くとある部屋に行き当たる。そこで〝珠玉〟を集めた人間の男は月の女神を口説いてモノにする。月の女神は男になびきやすい上、何度抱かれても永遠の乙女でいるらしい。そこで人間の男によって月の乙女の純潔が奪われれば、男は現世に戻れる。そして女は……処女の血を流す」

「──え?」

あたしは意味が分からなくて、目を見開いてエルを見た。エルはコホン、と一つ咳払いをするとあたしに分かるように説明を始めた。

「魔界を旅する人間の女が処女でなければならないのは、最後に塔で男と交わる為だ。その相手の男をどこから呼び出すのかは不明らしいが、真実愛し合う相手らしい。

部屋でカンタレラと呼ばれる媚薬を飲んだ女は、心から愛する男に抱かれる事になる。その時流れる処女の血を得ることで、塔の管理人は人間の女を現実の世界に戻してくれるんだ」

あたしは衝撃のあまりポカンを口を開けた。
それでは……あたしはこれからHするの?

予想もしていなかった事態に、あたしの脚は震えだす。あんなにHに興味があったのに、いざこれから男に抱かれると思うと、興奮より恐怖の方が強かった。

「そう怖がることはない。二葉のお父さんが娘を二十歳過ぎるまで〝弦〟にやりたくなかったのは、最後の試練を受け入れるのに十代の多感な時期では可愛そうだと思ったからだろう。二葉は学を愛してるんだろう? きっと塔の中では学が現れる。それこそ思う存分スキンシップが出来るぞ」

エルは茶化すようにあたしに言ったけど、その瞳にはまた憂いが戻っていた。一度目を伏せてその憂鬱そうな感情を隠すと、今度は視線を真っ直ぐあたしに向けた。

「俺はここに来るのが怖かった。自分が自分でなくなるのが嫌だったからだ。でも今では案内人に選ばれて良かったと思う。塔に向かって歩いていると、今までの悔しさや虚しさや苦しさが全部なくなって、自分が清められていくのが分かった。

俺は二葉に会えて良かった。短い旅だったが、とても楽しい思い出になった。きっと別のモノに生まれ変わっても、この暖かい思い出だけは忘れない様な気がする」

そう言うとエルはあたしのすぐそばに来て、あたしの頬に手を当てた。あたしがエルを振り仰ぐと、銀色の髪が目の前でサラサラとすべり落ちるのが見えた。

銀色のカーテンの奥で、あたしの唇はエルの唇を受け止めた。そっと唇を重ねるだけの挨拶のキスだったけれど、学とのキスよりずっと甘いときめきを覚えた。

エルは短いキスを終えると、あたしの肩に両手を置いた。あたしは何か言おうとしているのに、口からは途切れた息しか出てこず、目からは大量の涙を流すことしか出来なかった。
エルはあたしの肩をグルリと回し、あたしを塔の方に向けた。

そしてトン、と軽くあたしの背を押すと「さよなら」という言葉を残して後ろに下がった。

あたしは急いで振り返った。でもそこにはエルの姿はなく、彼と二人でたどってきた森の中の獣道が、かろうじて確認出来るだけだった。



塔の階段の突き当りの部屋で、あたしはカンタレラを飲み干した。

媚薬の置かれた小さなテーブルの横には、大きなベッドしかなかった。あたしはベッドの上に珠玉の入ったリュックを置いて、薄いシーツの中で相手を待った。突然ベッドが軋む音がして、彼が現れた。

あたしは彼に微笑むと、自らのすべてを愛する人に捧げた。

彼の舌があたしの細部までかき分け、その指先でからだの奥を探られた時は、涙が流れた。彼は少し不安そうにあたしの涙を唇ですくい取ると、これからすることの準備が出来ているのか確認するようにあたしの目を覗き込んだ。あたしは微笑み返した。彼の不安がなくなるように。

あたしの涙が歓喜から来るものだと確信した後で、彼は私に自らを埋めた。何度も、何度も、激しい絶頂に導かれて、あたしは彼にすがりつく。この快感が媚薬のせいなのか、本当の愛のせいなのか、その時のあたしには分からなかった。

もしかしたらそんなことは、どうでもよかったのかもしれない。

あたしは心から愛する人に抱かれている。愛しくてたまらないから、自分の中から蜜が溢れてくるんだ。ただの興奮や興味からくるんじゃない、本当の快楽。そんな強い感情を自分の中に確認できたことが、嬉しい。

あたしは塔のベッドの中で、愛する彼の銀の髪にくちづけた。



気がつくとそこは神殿の中だった。目を開けると、父の顔がすぐそばにあった。「お父さん」とあたしが言うと、「良かった、気がついたな」と安心した様子で答えた。

ああ、戻ってきちゃったんだ……。

あたしは落胆を隠せない顔でため息をついた。まだ彼の熱い体の感触が残っている気がする。あたしは変に重く感じる上半身を、腕で何とか起こした。

「その……大丈夫か?」と父が聞く。

「大丈夫じゃない。残ってるレミー・マルタンは全てもらうからね」

あたしが答えると、父はちょっと笑って「かまわん。もう一本つけてやる」と言った。

「そういえば、リュックはある?」

急に不安になってあたしは聞いた。苦労して集めた〝珠玉〟がなくてあたしだけ戻って来たなんてことになったら、ご本尊をぶっ壊すかもしれない。

「あるぞ。珠玉も確認した。まさか真珠を手に入れるとは思わなかった。すごいぞ、二葉」

父はウキウキした様子でリュックを掲げてあたしに見せた。父に褒められてあたしは誇らしい気分になった。役目をちゃんと果たせたこともこの上ない喜びになった。

──でも、エルと別れた苦しみは、心を去ってくれなかった。



数日後、お姉ちゃんの姿が月の鏡に映った。

お姉ちゃんは妖精の世界で、羽の付いた男性と一緒にいた。花畑の中にある小さな家で妖精と一緒に暮らしている。あたしはお姉ちゃんに会えなくなったのは悲しかったけど、二人の幸せそうな姿を見て安心した。でも安堵と同時に、抑えきれない羨望も湧き上がる。

もしあの時あたしもエルと逃げていたら、こんな未来が待っていただろうか。でもエルは黒の案内人だ。浄化されず一緒にいたら、あたしも魔物になっていたかもしれない。それも悪くないかな、と思ったけど、最後のエルの晴れやかな笑顔を思い出して、その考えは間違っていると気がついた。

きっとエルは今、魂が浄化され光の中にいる。もう会えなくても、エルは長い自殺の苦しみから解放されたのだ。

それはいいことだ。
だからあたしは、自分に正直に、強く生きていくことが出来る。



〝弦〟に行っていた一週間ほどの間、あたしと連絡が取れなくて心配したという内容のメールがあたしの携帯に入った。学はあたしに会いたがった。また誰もいない時間に、あたしの部屋に行きたいと言ってくる。

あたしは「他に好きな人が出来ました。別れましょう」とメールを返した。学からはその後、連絡がなかった。

久しぶりに大学に行った。あたしが長く休んだことや、お姉ちゃんが失踪したことで友達から色々聞かれたけど、あたしは風邪で、お姉ちゃんは外人と結婚したと嘘を付いた。

ランチルームに行こうとして、ぶらぶら校内を歩いていると後ろから肩を掴まれた。振り返ると学がいた。いきなり「なぁ、あのメール冗談だろ?」と言ってくる。

「冗談じゃありません。そっちだって他に好きな人がいるんでしょ。何人も」

あたしが答えると、学はカッとしたのか、肩を掴む手に力を入れる。学はテニスをやっているだけあって、さすがに握力が強い。思わず声が出そうなくらい、肩が痛くなる。その手から逃れようと体を後ろに引いたけど、学は余計に力を入れて握ってきた。

「もう一度二人きりで話し合おう。もっとゆっくり出来るところで。そうすれば別れようって気持ちが間違いだったって分かるはずだよ」

猫なで声で学が囁く。耳元に唇を寄せられて、ゾッとする程の虫唾が走った。あたしが反論しようとした時、突然、学があたしから離れた。

目の前に学の襟首を片手で掴み上げる、背の高い男性がいた。少し長めの黒髪の青年が「俺の女に触るな」と学に向かって言った。

あたしはビックリしてその人を見た。どう見ても知らない人だ。でもこの声──。聞き覚えがある。

「何だよ、お前は。どこの学部だ?」

学が顔を真っ赤にして青年に言った。その男性は学の襟をを突き放すように離すと、「理工学部二年、江藤るいだ」と答える。

「こいつか? 二葉の好きな奴は」

学があたしを見て問いかけた。青年もあたしを見る。正面から彼の顔を見て、あたしは彼が誰か分かった。

「……そう。この人があたしの好きな人。ごめんね、学」

溢れる涙もそのままに、あたしは学に向かって言った。学は一瞬呆然としてあたしの涙を見たけど、「そういう事か、分かったよ」と言ってその場を去った。

〝江藤るい〟を見つめたまま、あたしは涙を止められなかった。彼は目を細めて、黒曜石の瞳を柔らかく塞ぐと、手を伸ばしてあたしの頭を自分の胸に引き寄せた。あたしは人目もはばからず、彼の胸に顔を押し付けて泣いた。

「全部記憶があるんだ。子供の頃からの江藤るいとしての記憶も……そのほかも」

別れてそれほど経ってないのに、エルの声はひどく懐かしく聞こえた。

「なっ……なんで? どうしてなの?」とあたしはつかえながら聞いた。

「良く分からない。二葉と別れたのに、すぐまた塔の中のベッドの上にいた。俺は二葉が俺と同じ気持ちだったと知って死ぬほど嬉しかった。二葉を抱いて、もう思い残すことはないと思った。でも昨日、江藤るいの中で俺は蘇った。これは仮説だけど……」

エルは──るいは、あたしを自分から離すと真っ直ぐ見つめてきた。そして憂いの消えた甘い瞳であたしの視線をクギ付けにする。

「人間に恋した死神は、人間になるのかもしれない。限りある命になってしまったけど、これからはずっと、二葉と共にいることを誓う」

あたしはまた自分の目から涙が流れ落ちるのが分かった。るいに向かってもう一度手を伸ばすと、彼はあたしをしっかり抱きしめてくれる。そしてるいは、これからはずっと一緒に歩いて行くことを誓ってくれたその声で、甘い殺し文句をあたしに告げた。

「もう、ブランデーもカンタレラも必要ない。これからは俺が二葉を酔わせてあげる。この命が尽きるまで」