恋する死神

第一話

キスを交わす学(まなぶ)の手が、あたしの胸に軽く触れた。

あたしは身をよじってその手を避けた。自分の手で学の手を脇に押しやり、横を向いて唇も離す。ハァッ、と学が息を鋭く吐いた。明らかに不満を表す態度。学は苛立たしげに一度あたしの肩を力を込めて掴むと、突き放すように離れた。

「ごめん……」と、とりあえず謝る。抱き合っていたことで着崩れてしまったニットのカーディガンを整えて、あたしも学から身体を離し、ベッドの脇に移動した。

「……納得できないよ。キスはいいのに、なんでそれ以上は駄目なワケ?」

「だから、ごめんって……」

あたしがそう言うと学は余計イラついたみたいで、もう一度強めのため息をついてベッドから立ち上がった。

「オレ、帰るわ」

後ろを向いたままそれだけ言い残すと、学はあたしの部屋から出て行った。あたしは一応、学の後を追いかけた。学が玄関で靴を履いている時、何か言おうと思ったけど、言葉は浮かんでこなかった。学はドアを開けて出て行く瞬間、少しだけ振り返ってあたしを見た。あたしが引き止めることも出来ずに無言でいると、学はプイと前を向いて別れの挨拶もせず玄関を出た。

ポツン、と一人残されて、誰もいない家の静寂があたしを包む。さっきまで抱き合っていた学の体温が急速に自分の体から逃げていって、深秋の空気の冷たさがにわかに身に沁み始めた。

怒るの当たり前だよね……と頭では理解していても、じんわり涙が滲むのは止められなかった。

学と付き合い始めたのは半月前からだ。大学のテニスサークルで一緒になり、飲み会で隣同士になって仲良くなった。日焼けした精悍な顔立ちの学は、女の子から人気があった。メアドを交換して何度か遊びに誘われて、付き合おっか、と学の方から言ってきた。

あたしは少し躊躇ったけど「うん」と返事した。お姉ちゃんは〝弦(げん)〟 に無事旅立ったし、あたしに役目が回ってくる可能性は低い。あたしだって普通の二十歳の女の子の幸せを味わいたい。カッコイイ男の子と一緒に映画に行った り、ショッピングしたり、手をつないだり、キスしたりしたいもの。

二十五歳まで処女でいろ、という決まり事さえ守れば多少羽目を外したって問題ないはず。 これでお姉ちゃんが〝珠玉(しゅぎょく)〟を手に入れて戻って来さえすれば、二十五まで待つ必要もない。

そう勝手に判断して、お父さんに内緒で学と付き合い始めた。髪型や、薄い化粧、女の子らしい服装を気にするようになったあたしの変化に、多分お父さんは気づいていたけど、数日前まで見て見ぬふりをしていた。一度あたしが夜十時の門限を破ってしまった時、「掟」を忘れるな、とつぶやいた事を除けばうるさいことは言わなかった。

そのお父さんがの様子が変わったのが三日前。そろそろ〝弦〟から戻る予定のお姉ちゃんが戻ってこないから。お姉ちゃんが帰ってこない事で、神社の神主であるお父さんと隠居したお爺ちゃんが顔面蒼白になった。

「お前に行ってもらう可能性が高くなってきた。身を清めておけよ」

突然お父さんからそう言われて、あたしは焦った。だって三日後の日曜日……それは今日に当たるのだけど、初めて学があたしの部屋に遊びに来ることになってたんだもん。

「家に誰もいない時がいいな」という学のリクエストに答えて、みんなが出かける日曜日の午後に遊びに来てもらうことにした。学は二人きりになるといつも積極的に迫ってくる。だから今日はかなりススム予定だった。それなのに〝身を清めておけ〟だなんて……!

真面目に親の言うことなんか聞かないで、最後までいっちゃえばいい。そう思ったのに、学のキスが深くなるにつれて「よくない」という思いが強くなった。

やっぱりあたしも朱雀家(すざくけ)の娘。決まりごとを守るように小さい頃からスポイルされてきた。熱いキスで学がノってくるに連れて、あたしの心のブレーキは〝キキーッ〟と音を立ててストップを掛けた。

それであの始末。これでしばらくはあたしに、Hのチャンスはなさそう……。

ガックリして自分の部屋に戻って、さっき学と二人で座っていたベッドに腰掛けると、玄関のドアが開く音がした。

「二葉(ふたば)、いるか?」というお父さんの声が一階から聞こえる。あたしが下に降りていくと「すまんがお前に〝弦〟に行ってもらうことになった。今夜だ」とお父さんが言う。

「今夜!? 嘘でしょッ」

あたしは驚愕のあまり大声を出した。だって今夜って……。急すぎる!

「嘘なもんか。一葉はもう戻らない。残念だか失敗だ。とにかく早くお前に〝弦〟に行ってもらって〝珠玉〟を集めてもらわないと大変なことになる。もう珠玉は後三つしか残ってないんだ。それに今夜は弦月だ。神無月の弦月にしかあそこへの入口は開かない。今日しかないんだ。用意しろ」

あたしはもう、訳が分からなくてしばし呆然とお父さんを見た。父は少し決まり悪そうに「一葉は案内人にほだされた。お前は気をつけろよ」と伝える。あたしは震える声でお父さんに聞いた。

「お姉ちゃんはもう……戻れないの?」

「戻るかもしれんし、行ったままかもしれん。まぁ、あいつの案内人は〝白〟だったからタチの悪い奴ではないはずだ。きっとどこかの世界で生きていると思う。その内月の鏡に姿が映るだろう。此岸の世界など、どうでもよくなった浮かれた姿がな」

これだから女は……と父が小さくつぶやいた。あたしは少しムッとしてお父さんを見た。お姉ちゃんは小さい頃からお父さんの言う事を聞いてずっと頑張ってきた。あたしがサボりがちだった小太刀の稽古も 真剣にやってたもの。さっさと〝弦〟に向かわせてくれれば、お姉ちゃんも二十二歳になるまで男性との交際を我慢しなくてすんだのに。

きっとお父さんはお姉ちゃんに恋愛してほしくなかったんだ。娘を他の男に取られたくなくて、ギリギリになるまで役目を命じなかったんじゃないの?

お父さんはそんなあたしの避難がましい視線などお構いなしに、旅の準備を始めた。
あたしがお風呂に入って身体をしっかり洗い、動きやすい服に着替えて神殿に向かうまでの間に、月の鏡をビカビカに磨いて待っていた。

「よし、では案内人を召喚するぞ。〝白〟なら仙人か天使。〝黄〟なら修験者か剣士。〝黒〟なら魔物か怪物だ。他のものが出てくる可能性もあるが、大方そんなところだ」

「前から疑問だったけど、なんで和洋折衷なの? うち神社なのに天使とか変じゃない?」

あたしは神殿を見回した。薄暗くて、奥の方にあるご本尊と呼ばれる石の前に紙垂が垂れ下がっている。〝天使〟が出てきそうな明るい要素は一切ない。

「〝弦〟は要するに魔の世界だからな。戸口は各国にある。日本の伝統妖怪だけが魔界に住んでるワケじゃないんだ。〝弦〟に行くために四霊獣を世話する我ら一族は、天国、極楽、地獄、冥界、どこからでも力を貸してもらう。頼むから〝黒〟だけは呼ぶなよ。契約だから助けてはくれるだろうが、一筋縄じゃいかない 奴が来る確率が高くなる」

父は神経質そうに月の鏡をあたしに向けると「小太刀で小指を切れ」と言った。丸い鏡を半分に割った形をした古い銅鏡の前に、水の入った黒い浅皿が父の手で置かれる。半月の形をした銅鏡が月の鏡だ。

〝弦〟への案内人を呼び出すための 道具はそれこそ世界各国それぞれだが、日本では銅鏡か聖刀らしい。うちの神社は南の朱雀が〝弦〟と人間界の間にある戸口を守っていて、他にも北の玄武、東の青龍、西の白虎が三つの戸口を守護していると聞いた。

あたしは言いたいことの全てを飲み込んで、父の指示に従う。皿の水の上に手を出すと左手の小指を小太刀で軽く傷つけた。ポタリ、ポタリ、とあたしの血が水の上に落ちる。

「天の為す使者、地の為す使者、冥の為す使者、我に力を与えたまえ」とあたしが唱えると、ピカッと月の鏡が光った。

ゆらゆらと浅皿の水が波打つ。そこから青白い湯気が立ちのぼり、次第に丸く固まっていく。丸い湯気の塊の下にあたしが両手のひらを上にして差し出すと、不意に塊がポンと手に落ちて来た。

丸い塊の周りの湯気が、霧が晴れる様に薄れていく。あたしはドキドキして手の上の野球ボール大の不思議な玉を見た。やがて湯気がなくなり、玉の色がはっきり見えた。

黒。

「オー、ゴッド!」と父が言う。
その反応、神主として間違ってる気がする……。

「黒だ! しかもこれは……毛唐だ。日本からの案内人じゃない」

「ええっ。それじゃ外人なの? あたし英語苦手なんだけど」

「言葉は多分通じるはずだ。しかし黒とは……。全く、お前はくじ運が悪すぎる。いや違うな、行いが悪いんだ。一葉のおやつをちょろまかしたり、夕飯のおかずをちょろまかしたり、おれのレミー・マルタンをちょろまかしたりするから運に見放されるんだ」

あら……お父さんあたしがブランデー盗んでたの知ってたんだ。でもそんな細かいことにこだわるなんてお父さんも人間が小さいな。仮にも神に使える身、もっとグローバルな視点で物事を見なくちゃ。

「まぁ、こうなっては変更もきかんし行くしかない。せめて案内人が飛び切りのブサイクである事を祈ろう。それなら、いくらお前でも惑わされないだろう」

父はそう言うと、グイグイあたしを押して庭の井戸の前に連れてきた。井戸の中の水鏡には、下弦の月が照り映えている。

今では、水晶の様に透き通ってきた黒い玉を両手に持ったまま、あたしは井戸に近づいた。足がすくむ。お姉ちゃんが〝弦〟に行く時井戸に飛び込んだのを見たけど、いざ自分がやろうと思うと怖さのあまり逃げ出したくなる。半歩下がったあたしの背を、今度はドンッと父が押す。

「ひゃああああー」と言いながらあたしは井戸に落ちた。「幸運を祈ってるぞ!」という父の声が頭の上を追いかけてくる。

もうちょっと優しいやり方、出来ないのぉ、と思った瞬間、落下の感覚が消えてフワリと地面に降り立った。ちゃんと立ったままの姿で。

意外に早い到達に、怖くて目が開けられなかった。くっつこうとするまぶたを何とかこじ開けて、あたしは前を見た。

目の前にはドアがあった。やはり半月の形をしている青銅製のドアだ。ドアだと分かるのは取っ手があるから。そのドアは宙に浮いていた。白い空間に、大きな半月だけが圧倒的な存在感でそこにある。

なにコレ……開くの? と思っていると「それが魔界への入口だ」と後ろから声が掛かった。

ドキン、と心臓が跳ねる。あたしは急いで振り返った。最初目に入ったのは黒と銀。瞬きすると、その二つの色が形を成す。

黒はフード付きの長いコートだった。コート……というのかな。ううん、違う。マントだ。その人はフードの付いた長いマントを羽織っている。そして銀は髪。ストレートの長髪がフードからはみ出ている。

目の前の人物は手を顔の横に上げると、気怠そうにフードを取り払った。ファサ……と流れ出てきた髪は、ほんのり輝く銀色だ。お父さんが案内人は毛唐だ、と言ったのを思い出す。ガイジンかぁ、と思って改めて顔を見た。そこであたしは息を飲んだ。

「うっわ。綺麗!」

思わず、声を上げる。だって……だって、ものすごく綺麗な男性なんだもの。銀の髪に白磁のような顔。その皮膚はちょっと病的な程青白い。少し細めの目は黒曜石の様に黒い瞳を持ち、心臓が凍るような冷たさと、一抹の憂いを秘めている。

彼はその手に長い杖を持っていた。杖の色も黒。でもその黒にはラメが入っていて、銀河のように怪しく瞬いている。