HV

第五十三話

長い坂を登ると正門が見えてくる。

キィン……と音がしそうな、冷たい空気が頬を掠める。もう十二月なんだな、と歩きながら考えた。ここに来た時は夏の名残りが色濃く残る頃だったから、早いなぁと思った。

男として入学して上手くやっていける自信なんてなかったけど、何とか楽しい高校生活を送れている。学校生活はそれなりに忙しく、あっという間に日々が過ぎた。

昇降口について靴を履き替えて二号棟へ向かう。廊下を歩きながら、ここで大泉に会ったな、と思い出す。そんなに前じゃないのに、かなり古い記憶に感じる。大泉はもう学校にいないから余計不思議な気がした。

大泉は公然わいせつ罪か何かで捕まった。公園で露出したのが、逮捕の理由だと聞いた。捕まった後、漫研の部室にある大泉の持ち物から私の写真や絵が出てきたから、一時かなりの噂になった。

でも私自身に落ち度があったわけではないので、菜々美ちゃん方式で毅然と過ごした。今ではその話題はかなり古いものになっている。

あの日は変な日だった。私は確かに大泉と会う約束をしていて、部室で待ち合わせしていた。でも寝不足から私は貧血を起こし、部室には行かずに保健室で寝ていた。

その日はそのまま帰宅して、次の日大泉の逮捕で学校は騒然としていたのだ。会いに行かなくて良かった、と心の底から安堵したのを覚えている。逮捕後、大泉は未成年なので注意を受けただけで済んだらしいが、さすがに学校は辞めた。

悪いけど、残念だとは思わない。

「うおっす、蘭!」という声と共に、パンッと軽く後頭部を鞄で叩かれた。

「ってーなッ。治希!」

私は答えた。段々男言葉にも慣れてきた。

「なあ数学の宿題、やってきた? 今日おれ指されそうなんだよな」

いいながら治希は私の肩に腕をまわす。相変わらずの触り屋ぶりに、思わず笑ってしまう。

「やってきてない。治希に見せる分は」

私が答えると、なんじゃ、そりゃー、と治希が叫ぶ。私の後ろから「おはよー。蘭ちゃん。ついでに治希」と菜々美ちゃんの声がかかる。

おれはついでかよ……、と治希がぼやく。それでも菜々美ちゃんを見返す治希の顔は薄くピンクに染まっている。菜々美ちゃんは髪を切って、肩にかかる位のボブカットにしていた。

私が菜々美ちゃんのことで近藤とやり合ってからも、やっぱり近藤は彼女にしつこく付きまとったらしい。でも菜々美ちゃんはきちんと大人に相談した。両親同士の話し合いで別れる事ができた、と教えてくれた。今でも近藤は学校に来ている。まあ、そう簡単に辞める訳にもいかないだろうが、菜々美ちゃんはつらいだろうな、と思う。

仲の良かった遠近コンビも解消されてしまった。治希は「いいんだ、元々気が合う訳じゃなかったし」と言ったけど、私のせいかもしれないと思うとなんだか申し訳なかった。

「ほら、もうっ。治希の髪ぐちゃぐちゃ。寝癖直してないでしょ?」菜々美ちゃんが治希の髪に手を伸ばす。

「だってめんどくせーもん」と答えながらも、治希は逆らわない。「後でジェルつけてあげる」という菜々美ちゃんの言葉に、治希の頬がますます染まった。

私は自分の口が自然にほころぶのを感じた。二人は見ていて微笑ましかった。治希は押しが強い方ではないし、友達以上、恋人未満な状態がじれったくも好ましく映る。

でも菜々美ちゃんはまだ次の恋に向かう勇気がない、とつぶやいたことがある。治希の想いが伝わるには、もうちょっと時間が掛かりそうだ。

菜々美ちゃんが先に行ってしまうと、「で、宿題!」と言って治希は私を振り返った。

「なんだっけ。それ」

「お願いです。蘭さま、神さま、仏さまっ」

私は足を速めた。治希の声が後から追いかけてくる。

「いーじゃん、頼むよ。見せでくで──」

内心可笑しくて吹き出しそうだったけど、私はあえて無表情を装い、並んできた治希を見上げた。

「そうだなぁ、何くれる?」

「カレーパン一口」

却下、と言ってまた足を速める。くすくす笑う声が横から聞こえた。

「おはよ。瑠璃ちゃん」

私が言うと「おはよう」と微笑んで、瑠璃ちゃんは頬を赤く染めた。瑠璃ちゃんはいつもこうだ。他の女の子は結構はっきり私にアピールしてきたりするけど、瑠璃ちゃんからは押し付けがましい行為を受けたことがない。その態度も言動も、かわいいなぁとは思う。

でもやっぱり女の子は好きになれそうにない。瑠璃ちゃんを友達としては好きだけど、恋愛となると全く別だった。

教室が近づく。いつも通り私は緊張した。開け放たれたドアから、みんなと一緒に教室の中に入る。

そして──自分の席に着く。隣を見るのが、怖かった。

隣には転校してきた当初から、誰も座っていなかった。空の机だけが、なぜかいつまでも置いてある。その机を見ると、ギュウッと胸が締め付けられる。苦しくて、切なくて、涙がにじんでくる。

パタッ……という音がして、自分の机に水滴が落ちた。なんでだろう。私はここにいた人を知っていた気がする。とても、とても、大切な記憶を、なぜか忘れてしまっている……。

そんなわけないか、と今日も自分をごまかす。大体誰もいないのにどうして記憶があるの? 人生に悩み過ぎて、少しおかしくなりかけているのかもしれない。



──それとも……

ひとは太古の昔から、そうやって忘れてしまった大切な何かを、産まれてから死ぬまで……ずっと探しながら生きてきたのかもしれない。

この広漠たる世界を、大切な愛を探してさまよう、さすらい人として渡って行くのだ。

その宝物を見つけられる人は、運がいい。大抵の人は悩みながら、迷いながら、年老いて終焉を迎える。

でもきっと、その先がある。何もかも終わった後、人はたどり着くだろう。そこは何の迷いもない、苦しむ人の一人もない、花々が咲き乱れる、桃源郷のような場所のはず……。



私は隣の席から無理やり目を離して、前を向いた。前方の黒板と重なるように、ほの明るい荒地が透けて見える。その明けることのない、白い闇の荒野に続く一本の線。その線を頼りに私は歩く。

寂しいけれど、独りだけれど、行くところまで行かなければならない。誰かが待っているかもしれないという、淡い期待を抱いて。

私はこぼれそうになる涙をこらえた。




そしてまた、白夜の道を歩き始める────