第五十二話

私は二つの視線を感じた。見えないのに、見守られているのが分かる。

「……蘭、すまない。でもこれだけは覚えておいてくれ。俺はお前を、気に入っていたぞ」

リトは言葉を喉に詰まらせながら、私に送る言葉を伝える。リトらしい上から目線の言い方だったけど、その言葉に込められた想いは強く感じることが出来た。ありがとう、と思念を送る。短い間だったけどリトに会えたことは私の宝だ。

良かった、流が無事で。どこも傷ついているところはない。私の願いは叶った。私の希望。流と初めてキスした時、心に強く生まれた望み。

流が、誰よりも、誰よりも、幸せになること。

この先いつか、もう一度ピュアと出会って愛し合い、流は我が子をその手に抱くだろう。流の隣で笑うのが私でないのは残念だけど、本当に幸せを感じ合える相手と永遠に生きてくれるならそれでいい。こんな中途半端な私といて、永遠の時を過ごすことが流の幸せとは思えない。

だからこれでいい。これで……いいの。

流が私を抱く腕に力を込めた。膝の上に抱えた私を自分の方に引き寄せる。私は流の右腕に抱かれているのは、分かっていた。流の左手が私の右頬にあてられ、その額が私の額に重ねられる。途切れそうな意識の中でも、私は流が何をするのか分かった。

やめて……と首を振ろうとした。でも口から余計水を吐き出しただけだった。血の味がまた、口に広がる。お願いリト、伝えて……。私は心で、リトに話しかけた。

「このまま……死なせて……」

リトの口から、私の声が聞こえる。

「ごめんね……。流……」

私の顔に、水滴が落ちるのが分かった。流の涙は私の頬を濡らすことはない。聖界の者の涙は、サラサラと滑って行くだけ。

「流、やめろ」リトが止めてくれる。流の額が私の額に、より強く押しつけられる。そのまま、言った。

「リト、ぼくは蘭がピュアだから好きなんじゃない。蘭が、蘭だから好きなんだ」

ごめんな、リト……と流がつぶやく。流は私から一度、額を離した。スウッと息を飲む音が聞こえる。

「全、解放」

短く流が言った。シュンッと白くまばゆい光が広がるのが分かった。白い闇にいるのに、わかる。

白夜に──朝が来た。その光を浴びただけで、苦痛が緩むのを感じる。白い闇が晴れてくる。少しだけ、視界がもどる。そこは学校のわびしい焼却炉の近くではなかった。白い世界。花びらが舞っている。

流が見えた。夢の中で見た、黒い和装の姿だ。襟元の金糸の草模様がキラキラ輝いて、流の白い肌を美しく彩っている。

「りゅう、きれい……」

我を忘れて私は言った。また口から血がもれる。指の感覚はもう、ない。流は微笑んだ。いつもと同じ大好きな笑顔。この顔を見られたから、もう私に未練はない。

「今、楽にしてあげるからね」

流が言った。

やめて。やめてよ。そんなことわざわざしなくても、もうすぐ私は楽になれる。苦痛も、嫉妬も、怒りも、喜びも、何も感じなくなる。いなくなれる、この世界から。

私はもう疲れたの、流。いつも、いつも、コンプレックスを持つことに。
私が、私でいることに……。

流がもう一度、額を私のおでこに当てる。左手は私の頬を優しく包んでいる。額が、熱くなる。以前癒やしてもらった時はほんわり暖かかったのに、今回は熱い。特に身体の右側が、燃えるようだ。さっきまでは痛くて熱くて、でも冷たくなっていったのに、今は何かが蠢いて暴れている感じ。その熱さに手を握りしめる。手に力が入った。

熱い……熱い……熱い……!

私の身体が、お腹から上に持ち上がる。激しくうずくような蠢きが広がる。ぐうっと体の右側が膨張するような内側からの圧力を感じる──そして……。

いきなり、消えた。

ギュッと閉じていた目を開けてみる。目の前で流が微笑んでいた。流は目を閉じると、私にくちづけした。嬉しいより、恐ろしかった。なぜなら流の唇は──冷たかったから。

流は口を離すと、そのまま頭を私の右肩に乗せた。流の身体が私の方に倒れてくる。その身体は……軽かった。私の腕の中で、流の姿が段々透けてくる。

「いや……」

私は流を、抱えて言った。

「いや──っ。りゅう……いやぁああ────!」

今度叫ぶのは、私だった。流は答えてくれない。私にもたれてくる身体は、冷たくて、動かない。

いやぁっ! いやだ、いやあぁぁあ───っ

私は叫び続けた。涙が頬を滝のように伝い落ちる。叫び続ける。それしか、できない……。

──そこで、ふっと気付いた。流がいないなら私もいなくなればいい。

しばらく、茫然と流を抱えた。剣……。剣があったはずだ。あれで刺せばいい。自分を……刺せば──

流の腰帯の左脇に剣が差し込まれている。私は手を伸ばした。

「完全、解放」という言葉と共に、パアッと薄桃色の光が広がった。さっきの光と同じくらい、強い。

私の腕から流が消えた。私は取り戻したくて手を伸ばしたけど、間に合わなかった。リトが靄の中で仰向けの流を膝に乗せて抱えていた。右手を流の胸に当てている。流の顔色がふうっとピンクに染まる。でもまたすぐ、青い色にもどる。

「だめだ。俺の力だけでは……」

リトがつぶやく。リトはギリシャ神話に出てくる神様みたいな服を着ていた。リトは日神ではなく、木神のところから来たんだ……という考えが頭をかすめる。

流はリトの腕の中で薄く口を開けて、目を閉じて意識を失っていた。ひどく小さな、稚い子供の寝顔のように見えた。眠ることのない聖界の者に意識がないということは、流はかなりのダメージを受けてしまったに違いない。

消滅するぞ、とリトは言った。なんで……流、私なんかのために──!

下を向いてギュッと眉根を寄せて、目を閉じていたリトが急に顔を上げた。真っ直ぐ私を見つめる。

「蘭。俺はお前の記憶を消す」

──記憶を……消す? 一瞬、意味が分からなかった。

「流はこれから日神のもとに連れて行く。どうなるかは──分からない。お前は流がいないことに、耐えられないだろう。だから消していく」

やめて!

咄嗟に思った。忘れたくない。流の事を忘れるなんて、絶対に出来ない。流を抱えたリトが白い靄の中、すべるように遠ざかって行く。私の頭に黒い圧力が掛かる。

いやだ、いやだ、いやだ……!

流を、忘れたくない。忘れることなんてできない。圧力に逆らわなければ、記憶をなくしてしまう……!

目の前が暗くなる。私は必死で抵抗した。遠ざかる流を見つめる。闇に逆らって、目を見開く。圧力に抵抗して目を開き続ける。

閉じるものか──閉じるものか……!




───やがて世界が、暗い闇に包まれた。