HV ―HandsomVoice―

第四十一三話

「──菜々美ちゃんを送って行け?」

流は怪訝そうに私に訊いた。

「うん。もし、道の途中で近藤が待ち伏せしてたら大変だし。あたしが行ってもいいけど、今になって寝不足で……ちょっとだるいの」

嘘ではなかった。頭がぼんやりする。

「リトは……?」小さい声で訊いた。私達は着替えて昇降口にいた。人はかなり少なくなっている。テニス部の菜々美ちゃんが、部活を終えてここに来るのは、もうすぐのはずだ。

「〝邪〟を見張っている。もう少しで固まりそうだ」

それなら心強い。〝邪〟が獲りついているのは大泉だから、リトは大泉を見張っていることになる。私が大泉と二人きりで会うことになっても、実際にはリトが近くにいることになるはず。それでかなり気が楽になった。

「〝邪〟は固まる瞬間が一番爆発率が高い。本人の精神に負荷がかかると、いきなり大暴走するかもしれないんだ。リトはかなり緊張していると思うよ。大泉が突然刃物でも持ち出して下校中の生徒を刺して回ったりしないかと、 ヒヤヒヤしてるんじゃないかな」

流の言葉を聞いて、また不安が頭をもたげた。そんな状態の大泉と二人で会って大丈夫かな。でもリトがいる。とにかく嫌がらせの犯人は、私が自分で確かめなきゃ。

自分の中で漠然としていた考えが段々見えてきた気がする。私は犯人を一人で突き止めたい。なんとなく犯人の予想はつくけど、大泉に聞いて確信を持ちたいのだ。

嫌がらせの犯人が触れたものは、全部血に汚れていた。そこから思い至るのは──薫。

薫が浴びたユリさんという女の子の血は、洗っても落ちないとリトが言っていた。それならば、嫌がらせの犯人に取り憑いているのは薫である可能性が高い。薫が犯人に何かやらせる度、その血が一緒に付いてしまうのだと解釈できる。

私は犯人を見つけて、薫に会ってみたかった。そして話が出来たら、彼に頼みたいことがある。薫が私なんかの言うことを聞いてくれるかどうかなんて見当もつかないけど、やってみる価値はあると思った。

一人で物思いに浸っていた私を見て、流はより心配そうな顔をした。手を伸ばして、私の額に当てる。

「体調が悪いなら、なおさら蘭から離れたくない。 菜々美ちゃんは他の奴にたのめないのか?」

「遠藤くんはあいにく法事で、部活を休んで帰っちゃってたの。河野くんは電車通学だから、帰る方向が全然違うし。瑠璃ちゃんは菜々美ちゃんと一緒に帰るけど、近藤が来たら勝てないでしょ? いいじゃない。両手に花!」

私が茶化して言ったら、流はますます憮然として「蘭以外の花はいらない」と言われてしまった。

「それに、蘭はどうする? まさか一人で帰るのか? それなら、ぼくは蘭と行く。悪いけど、蘭と菜々美ちゃんでは比べ物にならない」

ホントに悪いよ、それ。

「時間は掛かるけど、血の巡りを戻すことは出来る。傷ならかえってやりやすいんだけど……全身のだるさを取るのは少し厄介なんだ。ちゃんと蘭を治すから、一緒に帰ろう」

──そう来たか。私はまたもや、甘えっ子大作戦を取ることにした。誰もいないのを確認してから流の体にに手をまわして抱きつく。

「それじゃ、みんなが遅くなっちゃうもん。暗くなったら余計、怖いし。あたしは保健室で休んどく。往復させて悪いけど、迎えに来て。……ね?」

流の腰に両腕を回す大胆作戦で行った。上目づかいで、涙目。効果あるかな。

効果は、あった。流は私の背中に腕を回してから言った。

「すぐ戻るから、ちゃんと待ってて。勝手に帰ったら……お仕置きするからな」

そして頭をかがめて私のおでこにキスする。お仕置きってなんだろう……と思いながら、流の胸に頬を当てた。頭がぼんやりしているせいか、学校だっていう緊張感がなくなってるみたい。

私はふいに、流に強く抱きついた。なんとなくそうしないと、もう流に触れられないような気がした。怖くて、怖くて、たまらない。

いつか失うと分かってる。この温もりをずっと味わえるだけの資格が、私にはない。だからこの大切な愛を自ら手放した時、自分は生きていないだろうと覚悟している。頭ではそう理解していた。でも意地汚い私の心と体は、それを受け入れることを認めてくれなかった。

「蘭……?」

流はとまどいながらも、しっかり私の身体を抱いてくれた。

「やっぱり行けないよ。ぼくは蘭から離れるのは、無理だ」

「──おねがい。菜々美ちゃんが心配なの」

流にしがみついたまま、胸に顔を埋めて言った。

最後の──お願い。

ハッとして流の胸から顔を上げた。なんで最後なんて思ったんだろう。やっぱり体調がおかしくなってるのかな……。

流は私の後頭部に大きな手を当てると、もう一度自分の胸に引き寄せた。私がその胸に頬を擦りよせると、頭の上に流の唇が押しあてられる。愛おしい、と思われているのが感じられて、苦しいくらい胸が痛くなる。

流が私を愛するのは、ピュアの力。私が流の魂の片割れだからなんだ……!

そう心に言い聞かせていると、足音が聞こえた。私は急いで流から離れた。男子の制服を着ている二人が抱き合っていると変な誤解をされてしまう。

「蘭ちゃん、流くん、ごめんね。待たせて」

菜々美ちゃんが肩にピンクのスポーツバッグを掛けて昇降口に降りてきて言った。瑠璃ちゃんも後ろから菜々美ちゃんに続く。なんだか甘い香りがする。瑠璃ちゃんは調理部に入っているので、部活で色々な料理を作るらしい。甘いにおいだから今日はお菓子系かな。

時々私は、料理のおすそわけを瑠璃ちゃんからいただく。瑠璃ちゃんは頬を赤く染めて遠慮がちに試作品を寄こしてくれる。「良かったら食べてね」と言いながら。

瑠璃ちゃんにとっては私は男なのだ。それは真実ではあるが、事実とは言えない。男としての証拠は停留精巣があるだけで、肝心な男性器のない私の身体のことを知ったら、瑠璃ちゃんはおすそわけをしてくれるだろうか……。

「あれぇ? なんか……」

菜々美ちゃんが私の顔をしみじみ見ながら首をかしげる。もしかして、顔が赤くなってるかな? さっきまで私は流と抱き合っていたから、その余韻で頬が染まってるかも。

「蘭ちゃん、顔色悪いよ。大丈夫?」

菜々美ちゃんは私の予測と正反対のことを言った。私を覗きこむ菜々美ちゃんの可愛い顔も、ほっぺたが青くなっていた。近藤に殴られたすぐ後は赤くなっていたけど、今では赤みを通り越して青痣になりつつある。それを見て近藤の野郎がかなりの力で殴ったことが分かった。マジでサイテーな男。

「うん……。なんかちょっと気分悪いんだ。帰り、ぼくも一緒に行こうと思ってたんだけど、少し保健室で休んでく。ごめんね。流がついて行ってくれるから、安心して帰って」

私は菜々美ちゃんの質問に答えて言った。私の言葉を聞いて、流はまた何か反論しようとしたのか、口を開きかけた。でも私は二人に見えないように流の手を握って止めた。

菜々美ちゃんも、瑠璃ちゃんも私を心配してくれたけど、近藤の怒りがどう出るか分からないから、と言って先に帰ることを納得してもらった。

「すぐに迎えにくるからな」

心配の色を濃くした瞳で、流は私を見降ろしながら仕方なさそうに言った。

「うん、待ってる」

私は答えて、流から離れた。身体の後ろで握っていた流の手も──離れる。

私は一歩後ろに下がった。菜々美ちゃんと瑠璃ちゃんが私に向かって手を振る。流は少し逡巡して私と菜々美ちゃん達を交互に見ていけど、私がほほ笑み返して手を振ると、やっと背を向けた。スラリと背の高い後姿が少しずつ私から離れていく。

いかないで、いかないで、いかないで……。

自分から流を遠ざけようなことをしておいて、なんでこんなこと思うんだろう。それでもその思いを止めることが出来ない。寝不足と軽い貧血のせいで視界がかすむ。

それが本当は自分の涙なのだと、何度も私を振り返りながら遠ざかって行く流の姿が、揺れてぼやけたので気がついた。

〝行かないで……〟

校門の先の長い下り坂に流の姿が見えなくなっても、私の心はそれだけを叫んでいた──。