第四十二話

河野は手合わせ用に道場の一角を貸してくれた。

条件は自分も流と試合をすること。空手部はもともと少ないから、ほかの部員にはたいして迷惑は掛けないで済んだ。私はOBが残していったという、小さめの胴着を借りた。

でもその後がサイアク。私の身体は流によって完全に防護されてしまった。衝撃を受けるプロテクターと呼ばれる防具が全身につけられる。もちろん頭にも専用のヘルメット。鏡を見ると出来の悪い等身大のあやつり人形みたい。もう、信じらんない。

流も河野から胴着を借りて着替えている。空手は基本的に白い前合わせの上着を羽織り腰を帯で止め、長めのズボンを穿く。いつもの学校指定の制服と違って、和装の様な恰好になった流は昨夜の夢の中の姿と重なった。スラリと長い脚がめちゃくちゃカッコイイ。

「あたし……極真習ってたんだけど」

私は流に見惚れながらそっと言った。極真空手は攻撃を寸止めしない。試合相手の蹴りや突きは、よけなければまともに入ってしまう。私はかなわないと分かっていても流に本気で相手してほしかった。

「ぼくは寸止めでいくよ。もちろん」

こともなげに流は言う。私は頭に来て、怒鳴った。

「それじゃ、プロテクターなんていらないでしょ!」

「蘭はさっき、対策を取ることをちゃんと承諾したはずだ。まさか……裏切るつもり?」

ありえない、という表情で言う。私がぷうっとふくれると、流は面白そうに口端を上げながら、両手の人差し指で私のほっぺをつついた。プシュッと私の口から空気がもれる。それを見て、流はお腹を抱えて笑い転げた。完全に遊ばれてる。

私はプリプリして流に背中を向けた。笑い声が止まったと思ったら、流の指が後ろから頬に触れる。今度は指先でそっと頬をなでる。それだけでまた私の下腹部に熱い塊が生まれた。

この指に、手に、もっとたくさん触れられたい。探られたい。こんな男くさい道場で、甘い欲求に満たされる自分が信じられない。私、色情狂になっちゃったのかな。自分の中で育つ流への欲求のせいで、頬が赤くなって、しまいには涙ぐんでしまった。それを流は悔しさだと勘違いしたらしい。優しく低い声が私を説得にかかる。

「お願いだ。わかってほしい。ぼくは例え試合であっても蘭を攻撃の対象としてとらえることは出来ないんだよ。それでも何かの拍子に蘭を蹴り飛ばしてしまったりしたら……」

「治してくれればいいでしょ」

私はさっき教室で、治さなくていいよと言った自分の言葉を棚に上げて、自らのセクシャルな欲望を悟られまいと怒ったふりをして言った。

「そういう問題じゃない。ぼくは蘭が少しでも痛い思いをするのは耐えられない。その原因を自分が作るなんてことは、あってはならないんだ」

私は口を尖らせて下を向いた。流が私の前に回ってくる。少し視線を上げると流の胸元が視界に入った。前合わせになっている胴着が少しはだけて、思ったよりずっと筋肉質な白い胸板がちょっとだけ覗いている。私はさらに自分の体が熱くなるのが分かった。

私いま、どう思った? ……吸いつきたい? ああもうバカッ。誰か止めて!

恥ぢに乱れる私の心などつゆ知らず、流は少し冷静な声で最後の一撃を加えた。

「怪我を治すのも出来るけれど、ぼくにとっては苦痛を感じることなんだ。それでも蘭はかまわないと言うんだね?」

こんな風に、自分の苦しさを訴えるなんて流は今まで一度もしたことがなかった。だから余程私が傷つくのが嫌なのだということが伝わってきた。

「かまわなくない。……ごめんなさい」

私が言うと、流は軽く息を吐いて微笑した。

「ぼくこそ、追いつめる様な事を言ってごめん」

ほんとに、どこまで気ぃつかいーなの。流は絶対亭主関白になれないタイプだ。黙って俺の言うことを聞け、なんて私が永遠に生きてても言わなそう。

このまま押し問答していてもしょうがないので、とりあえずプロテクターを着けたままやることにした。でもやっぱり身体にまとわりつく嫌な感じ。

「動きにくいもん。不利だ」そう言ったら、「ぼくは極力動かないよ」と流に返される。私は歯を食いしばって、グッとかまえた。流は少し足を広げたくらい。余裕の表情。

ハッと息をはいて、とりあえず回し蹴り。流は軽く身体を後ろに引いて避けた。中段、上段、最後に胴回し蹴りを決めようとしたけど、全部さらりとかわされた。突進して、手刀正面打ちに出る。でも即座にガッと強い腕に止められた。お互い一旦離れた後、流の足が上段回し蹴りを繰り出してきた。しゃがんでよけようとしたけど、早すぎて間に合わない。

流の足は、私の顔のすぐ横、残り一センチでピタリと止まる。はあ、と離れた場所からため息が聞こえた。

「勝負にならないな。もっと練習が必要だ。楠本」

河野に言われて、くやしかった。

「も一回!」って言ったのに、「約束は一度だけ」としゃあしゃあと返される。

「春日、次は俺だ」

河野が出てきて言う。ホントは自分がやりたくて割り込んだの?

二人の手合わせを見ながら、身体に付けられたプロテクターをバリバリとった。ヘルメットもとって、ぺしゃんこになったくせ毛を手で梳いて直す。髪の毛がクシャクシャなくらいで流に嫌われるとは思わないけど、それでも少しでも可愛く見られたい。

河野と向かい合った流は、私の時とは気迫が段違いだった。グッとかまえた全身から、金色のオーラが立ち上るのが見える。段々、流とのつながりのせいか、流のだけなら身体から発散される気≠ンたいなものが見えるようになった。

ものすごい勢いで交互に足が繰り出される。流のしなやかさと、河野の重量感のある動きが、目の前でぶつかる。

かっこいいなぁ……とぼんやり思いながら、膝を抱えて流を見た。ここに来て昨日の寝不足が出たみたい。瞳をぼかして、夢の中みたいに流を見る。

いつまで──こうして流を見ていられるだろう。いつか来るものを、分かってはいるけれど、先延ばしにしたかった。それなのにその時を思うと、全身が痛くて、心は引き裂かれて、今すぐ死んだ方がましだと感じる。

愛してるよ、流……。

そう思って見つめたら、河野に勝った流が、私を見てガッツポーズして笑った。