第四十一話

菜々美ちゃんは赤い頬をかくしもせず、残りの授業を受けた。

噂はすぐに広まって、みんなある程度の事情は分かったようだ。なかには菜々美ちゃんに聞えよがしに、自業自得だよな、と囁いている声も聞こえた。その声には、遠藤が机を思いっきりバーンッ、とぶったたいて対抗した。

近藤は早退して教室にはいなかった。さすがにあんなことがあった後ではクラスメイトに会わす顔がないということか。今頃相当、ムカついてるだろうな。怒りが菜々美ちゃんでなく、私に向けばいいのだけど……。

それにはちょっとだけ、怖い気持ちもある。でもこれ以上菜々美ちゃんにつらい思いをさせたくなかった。

私と流、遠藤と河野、そして瑠璃ちゃんは、休み時間にはなるべく菜々美ちゃんと一緒にいて、みんなからほっぺのアザが見えないように囲んでしゃべった。菜々美ちゃんはいつも通りの笑顔で部活の事や、今夢中になっているドラマのことを話した。

本当は菜々美ちゃんも、近藤みたいにこの場から逃げ出したいだろう。遠藤の軽いツッコミに楽しそうに笑い声を上げながらも、他のクラスメイトが少しでも大声を出すとピクンと頬を引きつらせる。それを見て神経質になっていることが良く分かった。

でも彼女は毅然として自分と戦った。きっと今逃げ出せば、明日学校に来るのがもっとつらくなると分かっているのだと思う。

人間、注目される様な嫌なことがあっても、本人が堂々としていれば他人は次第に興味をなくす。今日いっぱいはつらいかもしれないけど、その内みんなは新しい噂話に移っていくだろう。

菜々美ちゃんはそのことをしっかり計算しているのかもしれない。そんな風に出来る彼女の強さは、見らなうべき価値がある。──良い意味でのその計算高さも。

そこで菜々美ちゃんが一人になった時、私はある事を質問した。菜々美ちゃんは嬉々として教えてくれた。私は思い切って授業終了後、流にそれを実行した。



「お願い!」と、とりあえず頼む。
「だめだ」即、解答。

「ね?一回でいいから、お願い」手を合わせて拝む。
「だぁめ!」とまた返ってくる。

放課後の教室にはほとんど人は残ってない。みんな部活か、家か、塾か、遊びに行ってしまっている。私はもう一度、言ってみた。

「ほんとに、一回でいいの。ね?」

「だ、め、だ」

ううっ。手ごわい。

そこで、菜々美ちゃん直伝の方法に出ることにした。私は椅子に座っていて、男子の制服のズボンはあまり見えない。どうか女の子らしく見えますように。

私はまず、両手を握り合わせ(まぁ許容範囲内かな)、顎に当てて組み(ちょっとあり得ない)、一旦、哀しそうに下を向いて(なんとかできた)、上目づかいに相手を見つめる(素面じゃできないって)。

そして少し首を傾け(不可能!)目を潤ませる(もう限界)。

「こんなに言っても……だめ……なの?」と声を震わせダメ押しする。

菜々美ちゃんはお父さんにこれを使うと、大抵何でも買ってくれると断言した。女はコワい。

言ってから、アホみたい、私なんかがやったって無理だって、と思って目を閉じた。でもため息と共に「一回だけだぞ」と言う大好きな声が聞こえた。

「やった!」と私が両手を上げると、流は呆れてこちらを見た。

「怪我しても知らないからな」

「うん。そしたら、えーん、痛いようって泣く。でも流は何もしなくていいよ」

ニコニコしながら私は言った。流は目を閉じてもう一度ため息をつくと、目を開けた。そして真顔になる。怒っちゃったかな……と不安になって見返す。流は私の顎を左手で、そっと掴んだ。ぎぃっと椅子を軋らせて、私に近づく。綺麗な顔が目の前にくる。

「あの……ここ、がっこう……」

「関係ない」

どうしよう、と思いながらも、やっぱり流の顔を見て目が合ってしまうと、私の思考回路はストップした。流のこと以外、何も考えられなくなる。なんとか放課後まで我慢したのに……今までの努力が無駄になる。それに、せっかく承諾させたのに……。

「蘭の頼みはちゃんと聞くよ。でももし試合中に、ぼくが愛する蘭を傷つけてしまったら──」

手入れなんてしてなさそうなのに、美しく整った眉が眉間に寄せられる。視線を私から軽くそらした流の悩み顔は、やってはいけないことをしてしまって後悔している堕天使のよう。笑顔の流も最高に綺麗だけど、こうして苦痛に耐えている表情はゾクゾクして飛びつきたくなるほどそそられる。私って変かな。

「大切な蘭をもしこの手で……怪我をさせるなんてバカなことを自分でしてしまったら、ぼくは……どうすると思う?」

お腹に響く艶やかな声が私に問う。甘い吐息がすぐ近くでかぎとれて、昨日と同じくらい……正直に言うと、昨日よりもっと強く下腹部に痛みが走る。甘美なうずき。恥ずかしい。私の心臓はバタバタ羽ばたいて、短距離を全力疾走した後みたいに踊る。

「じ……ぶんを、責める?」私はなんとか言い返した。

流の綺麗な目が、私の目の前で少し伏せられる。長いまつげがライトブラウンの瞳に影を落として、せつなそうな雰囲気になる。そのまま、上目使いに私を見る。さっきの菜々美ちゃん直伝の方法と同じだけど、迫力は千倍以上だ。なんてまつげなの。綿棒が三本は乗りそう。

「そう、その通りだよ。ぼくは自分を許せなくて……もしかしたら怒りのあまり、自分自身を傷つけるかもしれない……」

ぎゅっと寄せられる眉。苦しげな表情。神の裁きにより翼を折られ、堕とされた天使そのもの。どんなことをしても救いたくなる。

「だめっ。そんなのやめて!」

私は必死になって言って、私の顎に掛かる流の手を両手で握った。本当に目に涙がにじむ。流が傷つくのは絶対にダメ。例え本人がやるにしても、許せない。

「じゃあ──ぼくが蘭を間違えて怪我させないように、きちんと対策をとることを許してくれるね?」

今度は目をうすくふせて、こちらを斜めから見た。うん、うん、と首を振って承諾する。流が傷つかないようになんでもする、と本気で思う。

にこっと流が笑った。そこで、ハッと気が付いた。

「ちゃんと確認はとったから。約束だよ」

言われて悔しさのあまり、うーっ、とうなった。同じ手を使われたんだ、と気付いた時には遅かった。お願いごとをする時の卑怯な手。私のにわか甘えっ子作戦など足元にも及ばない、流の見事な反撃。比べるまでもないけど……私は流に、到底かなわない。



空手の手合わせを流に頼んだのは、もちろんやってみたかったからだけど、大泉と会うまでの時間をなんとか早めに過ごしたかったからだ。あいつと二人きりで会うと思うと、胃がでんぐり返りそうになる。サッサと犯人だけ聞いて終わらせたかった。

大泉と会う時間に、流には別の用事を頼むことにした。リトがどこにいるか分からないけど、なにかあったらすぐ来てくれると思うと心強い。河野には空手部の練習場所を使わせてもらえるように頼んである。

私達は道場へ向かった。