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第四十話
菜々美ちゃんを見ると、座ったまま茫然とこちらを見ていた。
私は近寄って、「大丈夫?」と聞いた。菜々美ちゃんは左のほっぺを赤くして、私を見た。「……蘭ちゃん、すごい」と言う。
「でも、近藤のプライド、ズタズタかも。あんまり、いい方法じゃなかったね。なんだかものすごく頭に来ちゃって……。菜々美ちゃんに余計ひどいことしてきたら、どうしよう」
本気で心配になってきた。ストーカーとかするかもしれない。
「──もうご両親に、きちんと話す時だと思う。君はもっと、自分を大切にするべきだ」
流はまっすぐ菜々美ちゃんを見ながら言った。菜々美ちゃんの右頬にも赤みが差す。流は私の肩に腕をまわした。
「うん、……ママに話す」
菜々美ちゃん少し目を伏せて答えた。そして立ちあがって、「よしっ」と腕を前に伸ばす。その唇は微笑の形を取っていた。私はそれを見てちょっとだけ安心できた。菜々美ちゃんは前に伸ばした腕をそのまま広げて、私と流を抱えるように近づいた。
「応援してるからね」と小さい声で囁く。私はビックリして菜々美ちゃんを見た。でも彼女はふわりとスカートをひるがえして私の横をすり抜けた。振り返って菜々美ちゃんを見ると、一瞬立ち止まってからこちらを見返した。口を開けたまま、間の抜けた顔で振り向いた私に小さく手を振って、菜々美ちゃんは教室に向かった。
あの左のほっぺがみんなに見られてしまうと思うと、胸がズキッとする。菜々美ちゃんは強くて、いい子だな。近藤がこれ以上何もしませんように、と祈るしかなかった。
私は掃除道具を仕舞って、流と教室に向かって歩いた。
「きこえ……ました?」
私は近藤に怒鳴りつけた啖呵が流に聞こえているだろうとは思っていたけど、一応確認のため、恐る恐る聞いてみた。
「聞こえましたねぇ」流が答える。
ああ、やっぱり……!
一番聞かれたくない人に聞かれちゃった。私の事、やっぱり〝男〟だなぁって思ってたらどうしよう。怖くて顔を見る勇気がない。
「カッコよかったよ」という言葉に、流の顔を見る気力が湧いた。こちらを見下ろす流の瞳には、いままでと同じ愛おしさが込められている。
「でもあまり、無茶はしないでほしい。もし蘭に何かあったら、ぼくは生きていけない」
いつもの低い、落ち着いたハンサムボイスが重々しくその言葉を私に伝えた。私は心底、ゾッとした。
「そんなこと、言わないで……」
冷や汗が背中を伝うのを感じながら、返事を返した。流は人間にとって、この世界にとって、大切な存在だ。私とは比べ物にならない。
リトは今の人間界では、神や星導師は非力な存在だと言った。でも、例え苦しむ人々を全員救うことが出来なくても、神様やその使いがいるのといないのでは大違いだと思う。
どこかで、誰かが、奇跡の手によって哀しい現実から救われる。それは他の人々にとって希望になると思う。突然いい思いをした人には何故あいつだけ、という嫉妬や羨望もあるだろうが、「いつか自分も」と思えることは、きっと生きる糧につながるはずだ。
そう、希望は素晴らしい。生きていく上で希望を持つことは、残酷になることもあるけど……それでもやっぱり、希望を持てるのは持てないよりずっといい。
「それにしても、さっきの蘭には今までにないオーラを感じたな」
「オーラ?」
「そう、なんて言うか……熱い光の様な何か……。きっと蘭がぼくと──」
そこで一度流は言葉を切った。私が不思議に思って見上げると、流は少し気まずそうにしながら顎に手をあてている。頬がほんのり紅潮していた。
「その……結合の儀式が終わった後」
ドクン、と心臓の音が全身に響く。結合って……要するに流と私が──え……Hするってことだよね。
私の頬は流とは段違いに真っ赤になったと思う。廊下に鏡がなくて良かった。今の自分の顔なんて……恥ずかしくて絶対見たくない。
「何か能力が目覚めると思う。あのオーラはその予兆かもしれない」
流に言われて、さっきの恥ずかしさも忘れて私は顔を上げた。
「能力? あたしにも何か能力があるの?」
「そうだよ。星導師のピュアは相手が人間の場合、結合した後能力が芽生える。それぞれ色々な能力がつくはずだから、蘭も特殊能力が使えるようになるよ」
私は思わずワクワクして流を見た。私に出来る超能力はなんだろう。でもそこまで考えて、ハタと気付く。
何を期待しているの、私は。能力を目覚めさすために必要なのは結合だ。私にはそんな未来があるわけがないのに……。
一瞬明るくなったのに、すぐに暗く落ち込んだ私の表情を見て流はそれ以上、能力については言わなかった。少しそのまま歩く。下を向いて歩く私の頭に、流の手が乗せられた。
「……今度、デートしよう」
突然、流に言われて目をぱちくりさせてしまった。デート? そんなのしたことない。
「ぼくには免許も、車もある。蘭の行きたいところなら、どこへでも連れて行くよ」
「え?免許って……。十六歳ってことじゃなかったの?」
「実はぼくは帰国子女で二年遅れてるんだ。だから今、十八」
「うそ~。じゃあ、あたしより年上なの?」
私は一年遅れているからそう言ったのだけど、流のちょっと困ったような笑顔をみて、バカな答えをしたなと思った。
考えてみれば流のような星導師にとって人間界での年齢など大した問題ではないのだ。それに流は私より〝かなり〟年上のはず。実際の話ではなく、今の高校での設定が帰国子女で十八歳ということなのだ。
「それでデートの話だけど、こんな年寄りとじゃ、いや?」
そう言って流は首を傾けてこちらを見る。ストレートの黒髪がさらさら揺れる。斜めに入る残暑の太陽の強い光を受けて、白い肌がより輝いて見えた。薄茶色の甘い輝きを秘めた瞳と、スッと通った細い鼻梁、それに続く完璧に整った唇。その唇は微笑とも取れない、心配そうな形に歪んでいる。「年寄り」とは程遠い、あまりの美しさにめまいがする。
私が答えないので流の瞳に不安が宿る。私は急いで首を横に振った。
「どこか遠く。誰も知っている人が居ない場所に行こう」
言いながら流の手が、私の髪をくしゃくしゃにする。誰も知っている人がいない所なら、気が楽だ。「うん」私が言うと、流は目を細めて微笑んだ。
どこか遠く、誰も知る人のいない街。誰も見ていない海。静かな浜辺。流と手をつないで歩けたら……夢みたいにうれしいだろう。それくらいなら、贅沢してもいいかな……。
私と流の初めてのデートの約束。普通の恋人同士には当たり前の約束だけど、私にとっては奇跡の様な小さな約束。
神様、許していただけますか……?