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第三十六話

アパートの前に着いてから流はいつものお別れの儀式をした。右手をのばして、私の髪をくしゃくしゃにする。

「──蘭?」

その時、名前を呼ばれた。
私は声の方を見た。流がゆっくり私の頭から手を離す。

「蘭だな、やっぱり。どうしたんだ、こんな時間まで。もう二時過ぎだぞ」

「お兄ちゃん……」

兄を見たのはかなりひさしぶりだった。いつも神出鬼没な人なので、こんな時間に帰ってくることは珍しくなかったけど、全然思いつかなかったので本当に驚いた。

「どういうことなんだ? この……人は……」

私によく似た目を見開いて、兄は流を見る。兄には一体どう見えただろう。友達? それとも──。

「こんばんは。ぼくは春日流といいます。蘭さんのクラスメイトです。夕方、偶然買い物先で会って、公園で話しこんでしまいました。遅い時間になってしまって、申し訳ありません」

流は堂々と、でも反省している、という気持ちをしっかり込めて、兄にむかって言った。私はどうしたらいいか分からなかったので、流のその毅然とした態度に感動を覚えた。

でも考えてみれば、流は兄よりもかなり長く生きているはずだ。兄どころか、その辺のおじいさんよりもっと長く──。一体、いくつなんだろう。訊くのは怖くて出来なそう。

兄は眉根を寄せて窺うように私と流の顔を見た。きっと思っているのだろう。どちら、なのか──。

「事情は、わかった。ただ蘭はあまり身体が強くない。無理はあまり、させないで欲しい」

「はい。分かりました。これからは気をつけます」

「──これから……?」

兄は私の顔を見た。私はまたどうしたらいいのか分からなくて、口を開いても言葉が出て来なかった。次に流が言った言葉を聞いて完全に心臓が一度、止まった。

「ぼくは蘭さんが好きです。もちろん、女性として。これからは蘭さんに負担が掛からないように、お付き合いさせて頂きたいと思っています。お許しいただけますか?」

その時の兄の反応は、申し訳ないけど滑稽だった。口をパクパクさせて言葉にならない言葉を出そうとしている。私は腰が抜けてへたり込まないように我慢するだけで、いっぱいいっぱいだった。

「そ……それは、蘭が望むならいいことだと、思う。その……君は──知っているんだね? 蘭の……」

「もちろんです。ぼくには全く問題のない事です」

きっぱり、流は言った。

「そうか……」

兄は一瞬、呆けたようにつぶやいた。そして流を真っ直ぐ見つめて言った。

「蘭をよろしく頼む。どうか蘭の事をきちんと、理解してほしい」

言い終わると、兄は流に向かって頭を下げた。

「分かりました」

流は言った。声が少し、震えていた。目にうっすら涙が見えた。聖界の人も泣くんだな……と場違いなことを考えた。

「じゃあ、また明日」

そう言って、私に手を上げると、兄に向って一礼して流は去って行った。その後ろ姿を見つめながら、自分の頬を伝う涙を、私は感じていた。



「……しっかりした子だったな」

部屋に入ると兄はそう言って、小さなソファに腰掛けた。

「うん……」私はそれ以上言わなかった。──言えなかった。

「好きなのか? その……春日くんを」

コクン、と私は頷いた。兄は私をしばらく黙って見つめると、ふうっと息をはいた。

「なんにしても、蘭にとっていい結果になることを願うよ」

一度、自分の手を見つめると、兄はまた私に視線を寄こした。

「……大丈夫だよ」私は答えた。兄は真顔になって一度、止まった。

「蘭──お前……」

「おやすみなさい」私は言って、部屋のドアを閉めた。兄には分かったのだ。私の、想いが。良い兄貴だな、と思った。兄が私の兄で良かった。

隣の部屋から、低い嗚咽が聞こえてきた──。



その日の夜、夢を見た。私は夢の中で眠っていた。眠っているのに周りが見える。白い世界だった。いつもの白い夜ではない。だから、怖くない。

空からはらはらと落ちてくるものがある。白いから最初、雪だ、と思った。でも良く見ると、白い花びらだと気が付いた。

怖くないのにはもう一つ、理由があった。眠っている私を抱いているのは、流の腕だから。

流は靄がかかった白い闇のなかで、私と一緒に横になって、私を左腕に抱いていた。流は黒い、着物によく似た服を着ている。合わせてある襟のところは、金の糸で美しい模様が刺繍されてある。草を絡めたような模様。下は白いズボンで、ブーツの様な黒い靴を履いている。睡眠の必要のない聖界の者である流は、飽きもせず、ずっと私の髪を撫でている。

私は白い服を着ていた。やっぱり着物みたいな形だったけど、襟の部分はかわいいレースで縁どられていて胸の下に白い帯の様なものが巻かれている。下はひざ丈のスカートの形をしていた。流の甘い吐息を頭のてっぺんに感じながら、私は一切、なんの心配もなく眠っていた。

このまま朝が来なければいい……そう思いながら、本当の深い眠りについた──。