第二十話

ジジジッと鳴いて、蝉が網戸にぶつかる音で目が覚めた。

学校から帰って、靴と靴下を綺麗にしてから疲れて座っていたら眠ってしまったらしい時計を見ると七時前だった。夕飯を考えてないことを思い出す。

ちょっと外を見たらまだ明るさが残っていたので、買い物に行くことにした。ムシムシするので、薄いフード付きTシャツとショートパンツに変えた。

ショートパンツは私がまだ女の子≠セった頃買った物だ。ちょっと女っぽいけど……まぁいいか、と思って穿いた。

近所の人にあまり見られないように行こう、と外を見た。アパートの外廊下にはだれも見当たらない。

玄関で虫よけスプレーをかけてから買い物に向かった。近くのスーパーはアパートの前の公園を抜けた先にある。行きは明るかったし、公園を横切ることをなんとも思わなかったけど、帰る頃には薄暗くなっていて、さすがに少し怖かった。

公園は静かで虫の声や遠くで車が走る音しか聞こえない。私は足を速めた。なんとなく嫌な感じがする。足元でがさっと音がした。ビクッとして音のした植木を見ると、何か黒いものが草陰にサッと引っ込むのが見えた。

きっと猫だ、と自分に言い聞かせた。耳を澄ましたけど鳴き声は聞こえなかった。その時、さっきの植木のもっと奥の暗がりで、ガサッ、ガサッと、人が歩いているような音が聞こえてきた。こちらに近づいて来ている。

私は思わずダッシュした。何か分からないものが迫ってくるのほど、恐ろしいことはない。走っていると今度はカシンッという音が聞こえた。金属が触れ合うような音。遊歩道沿いの広場の方から聞こえる。このまま走って行くと、広場が見えるはず。誰かいるなら心強い。……それがまともな人だったら、だけど。

走りながら広場をちらりと見てみると、遊具のない、細かい砂利が敷かれた場所がぼうっと明るく光って見えた。

この公園、夜間照明があったかな? と思ってそちらに目を向けて、私は思わず足を止めた。──そこで見た光景で、さっきの恐怖を忘れてしまった。

まず、二人の人影が見えた。片方は柔らかに波打つ金髪を肩くらいまでの長さにして、襟足の後ろだけ背中の半分くらいまで伸ばしていた。私に背を向けていたので顔は見えなかった。

もう一人は左半身がこちらから見えた。肩にかかる位の黒髪が顔にかかって、最初顔がよくみえなかった。

驚いたのは二人とも一メートルは優にある、長い剣を持っている事だった。日本刀のように先端が片側に曲がったものではなく、真っ直ぐな剣だ。ほんわり輝く白色で、薄闇の中、剣がキラキラひかっている。

黒髪の人が金髪の人に何か話しかけ、今度は二人で同じ方向、つまり私のいる方に身体をむけた。

ピッと背筋を伸ばして立った黒髪の人は、肩までのピタッと身体に貼りつく黒いTシャツを着ていて、下は紺のジーンズを履いていた。足は黒の皮っぽいブーツを履いている。ズボンの裾はブーツにたくしこんである。

金髪の人は七分袖の、ゆるく滑らかな素材の白いTシャツを着ていて、下は濃い赤色のピタリとしたカーゴパンツを履いていた。足は柔らかそうな黒のショートブーツを履いている。

二人は剣を右手に持つと、自分の前にグッと右腕を出し、剣の先端を空に向けた。左手は剣の中ほどの所に、手のひらを正面に向けて剣に添える。次に二人同時に膝を曲げてしゃがみながら、右足を横に伸ばして、剣の先端を左斜め上方にむける。

途端にシャッと剣を右後方に向けて繰り出すと、身体も合わせて回転させ、一気に一回転してまた前を向いた。最初と同じポーズになった、と思ったら、ゆっくりと右脚を曲げて、片足で立つ。右手を内側に半回転させ、剣が顔の前で地面と平行になるところまでたおす。そのまま勢いをつけトン、と右脚を前方に踏み込み、今度は右方向にゆっくり身体だけまわす。

二人は全く同じ動きをした。同じテンポで速くなったり、ゆっくりになったりして剣を振り回す。剣の舞だ、と思った。

最初同じ動きをしていた二人は、一瞬動きを止めてから、今度は背中合わせになった。そして鏡に映したように、左右が違うだけの、同じ動きの舞をする。

あまりの美しさに、圧倒された。くるりと回転した二人の剣が時々ぶつかって、カシャンとなった。この音が聞こえたんだ、と思った。

我を忘れて見ていたら、後ろでズズッと言う音がした。ゴポッ……ピチャッという音と共に、背中にヌチャッと大きな物がかぶさる様に乗ってきた。ぬるぬるした黒い物が人間の腕のように伸びて、私の首に両肩からまわってくる。

「わああっ」と私は叫んだ。服を着ている部分はまだしも、直接肌に黒いネチャネチャが着いた所は焼けるように熱かった。黒いそれはまさぐるように私の身体をうねりながら締め付ける。

この感触は──覚えてる。大泉の手の様だ……。

その時シュッと音がした。私をほぼ包みそうになっていた黒い塊が、グチュグチュと苦しむ様にもがいて、粘つく糸を引きながら私の身体から剥がれた。地面にどぷんと二つの塊になって落ちる。

それは真ん中から切られたように二つに別れて落ちたのに、お互いがお互いを探しながらうねってまた一つに合わさった。にゅうっと伸びてまた私に近づく。

瞬間、私は誰かの腕の中にいた。「リト、頼む」と私を抱き上げた人が言う。下の方でカシャッと音がした。

私を抱くために──そう、この声が分からない訳がない──流は剣を下に捨てたのだ。私は流の黒いシャツの胸元を掴んだ。首の回りが焼けてるみたいにピリピリする。流は黙って私を抱いたまま走った。人一人抱いているとは思えないほど軽くて速い走り。どこにいくのかわからない。痛くて熱い。

ガチャッとドアが開けられて、私は自分が屋内に入った事がわかった。目を開けたかったけど、あまりの痛みに悲鳴を押し殺すだけでせいいっぱいだ。次にドンッと音がした。流が何か重い物を蹴飛ばしたようだ。私は何かにそっと下ろされた。多分、ソファ。

私は両腕を胸の前でギュッと握りしめることしかできなかった。流は両手で私の両頬を優しく挟むと、すうっと息を吸い込んだ。

流の額が私の額に当てられる。おでこから身体に何かが流れ込んでいるように感じた。私の体はふわっと温まって、気がついたら痛みは全くなくなっていた。でも恐怖で力が抜けない。

「蘭」と流が言った。大好きな声を聞いて力が抜ける。でも今度は震えが襲ってくる。「蘭?」ともう一度流が言う。私はゆっくり目をあけた。

膝をついて流は下から覗きこむように私を見ていた。いつもは編んである髪が左側におろされて、左右アンバランスなのにいつもに増して……ものすごく美しかった。

「……りゅう?」

分かっていたけど訊いてしまった。「そうだよ」と言って流はふわりと微笑んだ。そしてそっと両腕を広げた。私は──ためらった。とたんに流が哀しそうな顔になる。

私はもう……我慢できなかった。震える手を伸ばして流の首に腕をまわした。流は私を引き寄せてソファからおろすと、思い切り私を抱きしめた。

流の左肩に顔をうめて私は泣いた。「──うーっ……」と言う声がもれる。どうしても涙を止めることも震えを止めることも出来なかった。流は右手で私の髪をなで、左手でしっかり抱いてくれた。「ごめん……、ごめん……」と何度もつぶやく。

いきなりパッと明りがついた。咄嗟に流から離れようとする。でも流の左腕は私をがっちりつかんで離さない。そこで流が振り返った。

音もなくドアの前に立っていた人を見て、驚いて息を飲んだ。さっき流と舞を演じていた人だ。近くで見たら……完璧な美女だった。