第十五話

その後、短い休み時間の間に体操服を探したけど結局見つからなかった。

また買わなきゃならないなぁ……と思っていると、「うちのお兄ちゃんのお古で良かったら、あるからあげる。古い物だし、全然気にしないでね」と瑠璃ちゃんが言ってくれた。

私は体操服が見つからなかったら、有難くいただくことにした。学用品は結構お金がかかる。大してカッコイイデザインでもない学校指定の体操服を買うのに、一万円以上かかった時は泣きそうになった。少しでも出費が増えるのは避けたいので、瑠璃ちゃんの申し出は素直に嬉しかった。

お弁当の時間になるとまた流は居なくなっていた。私は寂しかったけどみんなと一緒に食べていたら、ちょっと元気が出てきた。

掃除の時間に例のトイレに行った。影の事は怖かったけど、男子に混ざってトイレに入るのも同じくらい怖かった。

結局、ここに来た。今日は何も見当たらない。手を洗って、くるんと立った髪を撫でつけていると、「やめてよっ」と言う女の子の声が外から聞こえた。

「なんでだよ。いいだろ、キスくらい。オレ達付き合ってるんだから」

近藤の声だ。ていうことは、相手は……菜々美ちゃん?

「こ……んなとこでは、イヤ」

「ここは人、来ねえよ。オレは……落ち込んでるんだ。慰めて欲しいんだよ」

……んっ、と言う、息を殺す声が聞こえた。まさか無理やり……?

「やめて。……やだってば!」

菜々美ちゃんの声は段々切迫感を増していった。

「やっぱり、そうか。お前春日が好きなんだろ?」

「なんで流くん?」

バタッ、ドンッ、という音が混ざる。菜々美ちゃんの声は息の乱れで霞んでいる。

「……名前で呼んでんのか……」

近藤の声は怒りと焦りが混ざって、ざらざらして聞こえた。いやぁっ、と菜々美ちゃんが言った。まずい。

私は一気にトイレのドアを開けた。廊下の一番奥で、近藤が菜々美ちゃんを壁に押し付けていた。その右手は、菜々美ちゃんの左胸をグッと掴んでいる。私は虫唾が走った。

「あっ……れえ、取り込み中? ごめん」

とりあえず、おどけて軽く言ってみる。近藤の身体が少し菜々美ちゃんから離れた。

「蘭ちゃんっ」

私の名前を呼ぶと菜々美ちゃんが近藤を振り払って、こちらにダッシュしてきた。菜々美ちゃんは私の背中に回って近藤から隠れる。少し触れた身体が震えているのが分かった。

近藤は、なんとか私の前で体裁を保とうとしたらしい。引きつったわらい顔を見せる。前髪を長くのばして、こっそりカラーリングまでしてある今風の高校生の姿が余計、彼を情けない奴に見せていた。

「……やばいとこ、見られちゃったな」近藤はボソボソ言った。

「こっちこそ、タイミング悪くてごめん」

私は軽く片手を上げて近藤に答えた。こういうプライドの高そうな奴は追い詰めないに限る。私はこの場の緊張をほぐそうとした。

「菜々美ちゃん、掃除の時間にぼくの体操服見かけた? これで見つからなかったら、サイアク」

話題を他に向けたら、菜々美ちゃんも少し緊張を解いた。

「ごめんね、残念だけど見つけられなかった」

菜々美ちゃんは震えながらもきちんと答えてくれた。話しながら教室に向かって歩き出す。さりげなくでも近藤から遠ざけてあげたかった。二人が付き合っているのなら二人の事に首を突っ込むのは相談された時にしよう。そう思って、あえて普通の会話をしながら歩いた。

廊下を進んで行くと、体育館に行く渡り廊下と二号棟へ行く校内の廊下の、十字路になる所まで来た。そこで渡り廊下の方に人が集まっているのが見えた。渡り廊下の脇にある、まだ小さい欅の木の前に数人、集まっていた。その中に流の姿があった。

何事かと思ってそちらに近づいた。そうしたら木のそばに遠藤の姿も見えた。ほうきを持って木の上を見上げている。菜々美ちゃんと目を見交わした。「行ってみよ」菜々美ちゃんが私の腕を引っ張る。

渡り廊下に向かって外に出た。「治希―っ。流くん、どうしたの?」と菜々美ちゃんが声を掛けた。

まず、遠藤がこちらを見た。その表情は困惑と、嫌悪感が渦巻いている。私は流に近づいた。流は木の上を睨んでいる。その顔色は血の気がなくて、青かった。

「……楠本の……体操服──だと思う」遠藤が絞り出すような声で言った。

だと、思う?
何だろう。私は遠藤に近づいた。

その時パタッ、と音がした。最初視線は下に行った。なぜなら水が滴るような音だったからだ。木の下には──血だまりが出来ていた。

「──っ!」

声にならない声が出た。後ろから大きな手が私の両肩にそっと置かれた。私は振り返らず、上を見上げた。手を置いた人の事は見なくても分かった。

木の枝にぼろぼろに引き裂かれた体操服がひっかかっていた。その体操服から血が滴り落ちている。体操服は……血でぐっしょり濡れている。

どうやってあんなに高い所にある枝に、体操服を掛けられたんだろう。よじ登らなくてはならないことは、確かだ。

しかも──血。あんなにたくさんの血は相当な傷を負わなくては出ないはずだ。そこで、ハッと気が付いた。あの血はみんなには多分、見えない。

そして私の肩に手を置いている人には見える。見えている、と確信した。だから流は顔が青ざめていたのだ。

突然、遠藤がほうきを上にむけて伸ばした。少しだけ高さが足りない。遠藤はその場で少ししゃがむと、ヒュッとジャンプした。ぎりぎり体操服に先端が触れた。木の枝に引っ掛かっているのを取る為に、遠藤がほうきを後ろに引く。

体操服の上着はあっけないくらい、ふわりと下に落ちてきた。上着の下に重ねられていたハーフパンツのジャージもつられて落ちた。バサッと血だまりにジャージがかぶさる。青いハーフパンツは、じわっと血を吸いこんで暗い藍色に変色した。

私は一瞬躊躇ったけど、自分の体操服である可能性が高いし、とりあえず一歩前に出た。流の手が私の肩を強く掴むと、グッと右横に移動させられた。そのまま流が体操服に近づく。流の手は体操服を掴む前から光っていた。でも、みんなは気付かない。

流が振り返った時には、血は──消えていた。

「ひどい……」菜々美ちゃんがつぶやく。遠藤は、「くそっ。誰だよ、こんなことすんの!」と怒鳴ってほうきを地面に叩きつけた。流はぼろぼろの体操服を手に持って、「名前は確認した。蘭のだ」と言った。

分かっていたけど、グサッときた。誰がやっているにしても、転校二日目の私を相当恨んでるに違いない。

「これは焼却炉に入れる。いいね?」流が訊く。私はこくん、と頷いた。とっておいてもなんにもならない。茫然とする私の肩を、流はそっと握ってから、歩き出した。

ひくっ、という音がした。見ると菜々美ちゃんが泣いている。遠藤は地面のほうきを睨みつけていた。私はゆっくり、振り返った。

──そこに近藤の姿は……なかった。