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第十一話

アンドロゲン不感受性症候群にはいくつかのタイプがある。

性器が男性としても女性としても未熟で、生まれたときから見た目の上ですぐに男女の区別がつきにくい人もいるらしい。そういう人は、すぐに染色体の検査を受け、赤ちゃんの頃にこの疾患が判明する場合が多い。

その中で私は完全型に分類された。CAISと呼ばれるそのタイプは、外見は完全な女性に見える。成長とともに豊満なバストを持ち、柔らかなラインを描くウエストから腰は、女そのものだ。だから家族も娘に第二次性徴が来て、よその子に生理が来始めたのに何故うちの子には来ないのだろう、と思うところで初めて気づく事がCAIS発覚の大半を占める。

その完全型のはずなのに、なぜか私には乳房がない。いつまでたっても少年のような胸板をしている。でも声は高いまま。

女じゃない。でも男ともいえない。
私は何? 私はどう生きればいいの?

手の指の爪はずっと噛んでいるせいでほとんどなくなり、血がにじんでいた。外に出るのが怖くなり、やがて自分の部屋かも出られなくなった。陽に当たらないので青白くなり、食べられないので激やせした。夜眠ろうとしても、いくら徹夜しても睡魔は襲ってこない。

時々訪れる浅い眠りの中で、私は自分のお腹に包丁を突き立てる夢を見た。消えてしまえ、なくなってしまえ、こんな体……!

母から、私の話を兄が聞いたのは、引きこもりになってから三ヶ月後のことだった。カーテンを閉めた暗い部屋のベッドの片隅で、脚を抱えて座ったまま動かない妹を、兄は最初、茫然と見つめるだけだった。

「蘭」と兄は言った。絞り出すような声だった。

「おれと……家を出よう」

私はゆっくり顔を上げた。薄暗い部屋の中で、兄の顔は良く見えなかった。段々目が慣れて兄の顔が見えた。兄は……泣いていた。

その日のうちに必要最低限な物だけ、兄が鞄に入れてくれ、実家を後にした。母は一応、私を止めた。

「学校はどうするのよ。高校中退なんて……どこも雇ってくれないわよ……」

「こんな時も世間体なのかよ!」と兄が怒鳴った。時々しか会わないけど、いつも穏やかで温厚な兄が怒鳴る声を初めて聞いた。兄の運転する車で私は今居るT県に連れて来られた。

しばらくは何も出来なかった。兄は一時的に仕事を休んでくれて、ただ黙って日常生活を送らせてくれた。

私を責め、追いつめる家族の圧力から脱出したお陰で、少しずつ食事が出来るようになり、眠れるようになった。兄は私の身体の事を調べ、割と早く、すべてを理解した。

「蘭は、蘭だ」と兄は言った。

「例えお前がどんなでも、おれの大切な妹に変わりはない」と。その言葉を聞いて、ボロボロと涙が落ちた。ずっと、どんなに辛くても涙が出なかったのに、やっと私の涙は行き場を見つけた。やっぱり座って、膝を抱えたままだったけど、下唇を噛んで声を押し殺して私は泣いた。兄は私が泣きやむまでずっと肩を抱いていてくれた。

復学したい、と思ったのはそれから数カ月たってからだった。場所を移動してもなかなか外に出られなかったけど、兄もいつまでも仕事を休むわけにもいかず、日中一人でいて将来の事を思い悩むだけの日々は、余計に私の精神を消耗させるだけだった。前の高校と同じレベルの学校を探し、転入試験を受けて合格した。

その時から、白夜の旅が始まった。

 どんな苦しみにも終わりがくるんだよ
 どんなに暗い夜にも朝が来るようにね

昔から使い古されたようなフレーズ。人は苦しみを夜に例え、喜びを朝に例える。

──けれど、白夜に夜明けは来るのだろうか。

私の苦しみは夜ではないような気がする。私は余命を、死を宣告されたわけではない。常に痛みや吐き気が襲ってくるような重大な病気と言われたわけでもない。上手く薬を飲み、世間の目を上手にかわし、やがて真実を打ち明けても、受け入れてくれる人に出会う事は、運が良ければ可能だろう。

私の苦しみは闇夜ではないのだ。見ようと思えば、いくらでも先の見える、ほの明るい、白夜の中にいるように。

ずっと沈まない陽を見つめながら来る朝とは、一体いつを言うのだろう。ひるがえせばそれは、いつまでも朝は訪れない、という事と同等なのではないのか。

私は男として入学することに決めた。兄は反対したが決意は揺るがなかった。入学が中途半端な時期になったのは、男子として入学することを兄が校長に掛けあってくれたからだ。戸籍は女だから当初学校側は渋った。でも兄は、最後には土下座までして頼んでくれた。

「妹に前に進む機会を与えてください。やっと、人前に出る勇気が出たのです、お願いします……」と言って。本当に兄には頭が上がらない。でも申し訳ないが私は自分が前に進みたいのかどうかすら、分からなかった。

男として生きるなど、どうすればいいのか分からない。

男子として高校生活など、送れるはずがない。みんなにも受け入れてもらえないだろう。きっと友達など、一人もできない。この先、待っているのは暗闇だけ……。

私は闇に落ちる。どこまでも深い闇に。そうすればいつか、朝が訪れるかもしれない。そして闇の中で、決して見つからない真実を、血眼になって捜すのだ。

いつか、疲れて、諦めたとき、私が自ら命を断っても──だれも驚かないように……。



翌日も暑い日だった。

部屋で目覚めて思ったのは、よくぞ悪夢を見ずに眠れたな、ということだった。寝る前はあの黒い影と目を思い出して、眠りにつけるかどうかさえ不安だったのに、気がついたら朝になっていた。

少し汗でベトッとしていたのでシャワーを浴びてから学校に行くことにした。私はあまり汗をかかず、体臭もない。ついでに言うと、体毛もない。

エチケットに躍起になっている多くの人々から見れば、うらやましいと思われるだろう。でも成長したキューピー人形みたいな身体を見るとやっぱり落ち込んでしまう。

におわなくても、流に会うのに、例え少しでも綺麗でいたい。そう思って丁寧に身体を洗った。

そういえば流も男臭い体臭が感じられなかったな……、と思い出した。昨日すっぽり流の脇の下に入ったのに、全然臭いは感じなかった。それどころか五月の風の中にいるような、爽やかな香りがした。

一体どんなケアをしてるんだろ。スプレーかな。もっと親しくなったらメーカーを教えてもらおう。

ちゃんと朝食をとり、歯を磨いて、弁当を作って家を出た。もう自暴自棄になって、やるべき日常のこまごまとしたことを、投げ出すことはしたくなかった。朝の光を浴び、部屋を清潔にして、家具を調えて生活するだけで、人間の精神は正常に近づく。どうやったって、死ぬまでは生きなきゃならない。せめて死ぬ時くらい格好良く死にたい。

玄関を出て、アパートの古びた階段を降りた。ガンガンガン……と音がする。誰が昇り降りしてもすぐに分かるうるささ。下について顔を上げて驚いた。駐車場の隅の電柱に、流が寄り掛かってこっちを見ていた。

「おはよ」とあの声で言う。昨日家で何度も思い出して、充分堪能したつもりだったのに、私の頭の中の流の声は、到底本人に及ばなかった。もっともっとなめらかで、響いて身体に沁み渡る。

この声をなくして、私は生きていけるだろうか。

「朝から押しかけてごめん。ただやっぱり気になって……。怪我はもう大丈夫?」

気遣わしげな瞳。ほんとうに、どうしてここまで優しくなれるのだろう。私にだけ、と思いたかったが、同時にその自分の嬉しい感情に恐怖を覚えた。

好きになってどうするの?
これ以上好きになっても、その先には何もないのに。

自分の思いだけに捕らわれて、挨拶も何もなく私は下を向いてしまった。「ごめん、迷惑だった?」と流が聞いてくる。途方に暮れて落ち込んでる声。

例えどんな理由があっても、私は流を悲しめることだけはしたくない。「そ……じゃなくて……」と声を絞り出す。

「えっと、びっくりして……。あの……すごく嬉しい」

正直に伝えた。懸命に泣くのをこらえる。今は誰も見ていない。少しだけ……今だけ女の子でいさせてください。