HV ―HandsomVoice―

第十話

兄のアパートは学校から歩いて十分くらいの場所にある。私はわざとブラブラ歩いた。家に帰っても誰もいないし、兄は多分また泊まり込みだろう。

S県にある実家は、整然と並んだ住宅街のなかだった。中堅サラリーマンがローンを組んで立てた家々が続いていた。アスファルトにコンクリート、きちんと計算されて植えられた木々がある管理された公園。〝核家族とはこうあるべきだ〟という人生をそのまま体現してきた両親……。

このあたりは、実家よりももっと田舎で人々ものんびりして見える。何にもないとこだぞ、と兄は言った。有名なデパートもおしゃれなカフェもクラブもない。海に行くにも山に行くにも、車で三時間は掛かる。

一応メインストリートっぽい駅前の大通り以外は、住宅もまばらで奥に入ると畑が広がる。町のはずれには大きな川が流れていて、県をまたいで土手が続く。

平野で、名産も何もなく、観光になるような建造物も景色もなかった。確かに何もなくて、特に若い人達には退屈しか感じられない場所だろう。でも逃げ出したいと思ったら、電車に一時間も乗れば都内に行ける。都会で自分は田舎者だと悟ったら、とっとと戻って来られる。それがこの町がなかなか発展していかない、一番の理由かもしれない。

唯一、この場所の取り柄と言えるのが、川面に映える壮大な夕日だった。山に沈む夕日と違い、平野に沈む陽は遮るものがなく、何もかもさらけ出してくれる。遠くの山から下りてくる暴風に、少しでも対抗しようと植えられた背の高い常緑樹が、赤く沈む陽を後ろに黒く染まる。

夕日を照り返す川面に太陽が溶けていく。暗さが増すのと同時に、空は濃い紫と、藍色と、なぜかうっすらと明るい青が重なる。その空に月と金星がゆっくりと輝き出す。段々と瞬く星が増えていく。

都会では味わえない独特の夕景を見るたび、私が生きているのは地球という星なのだ、ということを実感させてもらえるのだった。



部屋について鞄を置くと、ドッと疲れが出てへたり込んだ。

兄の部屋は2DKのアパートの二階で、一人暮らしの時、荷物置き場になっていた一部屋を私の為に空けてくれた。

兄は私より十歳年上で、私が小学校低学年の時にすでに実家を出て一人で暮らしていた。両親にとって兄は、頭の痛い存在だった。いい大学を出てそこそこの企業に就職して、いずれ可愛いお嫁さんをもらってくれるのが、理想に凝り固まった両親の、特に母の希望だった。それが大学では就職率の悪い民族考古学を専攻し、優良企業どころか安月給でこき使われている。

母は兄の話を他人にするのが嫌いだった。どこにお勤めですか? と聞かれて、誰でも知っている会社名が言えないのを、恥じていたのだ。電話で兄に何度も転職を迫っているのを聞いたことがある。だから兄はろくに実家に立ち寄らず、その為私も妹もあまり接点が持てなかった。

遠い存在だった兄がいきなり近くに感じられたのが、一年前のあの日からになった。

「男性仮性半陰陽、アンドロゲン不感受性症候群の完全型です」

医者の言葉は、最初全く理解できなかった。

私はなかなか生理が来なかった。十六歳になっても訪れず、四つ下の妹に先に初潮が始まった。〝当たり前〟を信条としている母は、その内来るわよ、と自分をごまかし続けてきたが、ついに私を病院に連れて行った。

婦人科の医者は色々な検査を行った。下着を取って脚を広げて台に乗り、ウィーンといって後ろに身体が倒れて行く機械に乗せられた時は、極度の不安で涙がにじんだ。その後の検査では本当に泣いた。超音波器具を脚の間に入れられた時は、痛みのあまりうめき声が出た。

母は青い顔で手に持ったハンカチをくしゃくしゃに絞っていて、きっと大丈夫よ、何でもないわよ、と自分にだけ言い聞かせていた。私に対するいたわりの言葉を、ついに聞くことはできなかった。

数日後、病院に検査の結果を聴きに行った。母は父も連れて来たがったが、仕事を都合に父は来なかった。今思うと、逃げたのだとしか言いようがない。私は自分だけの不安に怯える母と共に、訳のわからない医者の話を聞くことになった。

私の性染色体は四十六XY、つまり男の性を持っていた。

「精巣性女性化症候群ともいいます」と医者は続けた。本来なら男性として生まれるはずが、私の体は男性ホルモンであるアンドロゲンを、なぜか全く感知することができないらしい。アンドロゲンなどと言われても最初なんだか分からなかったが、男性ホルモンと言われるとなんとなくわかる。

私の身体は男性ホルモンを出すが、体内ですべて女性ホルモンに代わってしまうのだ。その為、性器も産まれた時から完全な女性型だった。男性ホルモンを出すのはもちろん、精巣だ。私のお腹の中には卵巣でも子宮でもなく、停留精巣が存在していた。ショックのあまり母は半狂乱になった。

「……うちの子は男ですか? この子は男の子だったと言うんですか?」

ヒステリックに医者に詰め寄る。言われた医者も沈痛な面持ちで母が落ち着くのを待っていた。しかしその後、母は落ち着くことなど一度もなかった。もちろん、今に至るまでも。

自分は……男だ。家で鏡を見て、思った。

医者の話を聞き、泣きじゃくりながら嘘だ、嘘だ、私の人生はなんだったのだ、と繰り返す母と、どうやって家に帰ってきたのか思い出せない。

覚えているのは、泣いている母を諦めて、医者が私に向かって話したこと。私のお腹の中の精巣は成人すると癌化する可能性があること。でも今は摘出しないで様子を見ること。このまま女性として生きることは十分可能なこと。子供は産めないこと……。

ひとつ、ひとつが頭の中で転がりまわり、火花を放つようだった。

〝どうしたらいいか、わからない〟

鏡を見ながらようやく思いついたのがその言葉だった。母は父に話したが、父はただ黙っているだけだった。

「誰が悪いの? あなた? わたし? どんな家系なの? 結婚する前にちゃんと調べればよかった。もちろん、わたしの家系にそんな異常な人はいないわよ。この子だけよ。ああ、私にはこの子だけになってしまった……」

妹をだきしめながら母は嘆く。お父さんに似て小さなお目々ね、と言われて、お姉ちゃんばかり可愛がる母に育てられた妹は、ここぞとばかりに反撃に出た。

「ねぇ、ママ。これからなんて呼べばいいの? お姉ちゃん? それともお兄ちゃん? あたし、友達になんて言えばいい? 今更お兄ちゃんなんて恥ずかしくって言えないよ」

混乱する家族の中にいて、私は少しずつ狂って行った。高跳びの記録も、男だったからみんなよりいい結果が出たのかも……。小さなころから家でままごとするより、外で駆け回るのが好きだった事を思い出す。

バレエを習わせたかった母の意見を押し切って、中学で高跳びと出会うまで空手道場に通っていたのも、もしかしたら男の子の本能だったの? 

通い始めて半年の高校。クラスメイト。なんて言えばいい? どうすればいい?

黙ったまま、いればいい。
でも自分自身を騙せない。

唯一の幸いは好きな人もカレシもいなかったことだ。このまま一生、誰かの彼女になることはない。彼氏にもなれないだろう。私は男だが、男の象徴である肝心なペニスそのものがないのだから。