HV ―HandsomVoice―

第九話

「ほれにひても、たひひたへがじゃなくてよはったよ」

口中をパンでモゴモゴさせながら、遠藤が言った。男性を見ていると疑問に思うことがたくさんあるが、食べ物をめいいっぱい口に突っ込むのも大いなる疑問の一つだ。

「お前日本語になってねーよ」と近藤に突っ込まれる。私達は六人で昼食を取っていた。流はいない。私は一緒にいたかったけど「蘭ちゃん、一緒にご飯食べよ~」と言う菜々美ちゃんの声に気を取られているうちに、流の姿は消えていた。

「ホント、災難だったな」と近藤が言った。なんとなくバツが悪そうであまり視線を合わせてこない。私、なんかしたっけ? と思っていると「でも蘭ちゃん、うらやましい~」と菜々美ちゃんが言った。

「春日くん、超優しかったじゃん。あたしも抱き上げられたい!」と騒ぎだす。男としては抱き上げられるなんて情けない図なので、ごまかすために言ってみた。

「今度ぼくが菜々美ちゃんを〝お姫様だっこ〟してあげる」

「きゃ~ん。うれしいっ。でも蘭ちゃんあたしよりちょっとしか背が高くないじゃない? 持ち上げられないよ」

「うーん。じゃ菜々美ちゃん痩せて」

「まー、失礼! あたし十分細いもん。蘭ちゃんが筋肉つけてよ」

とふざけた会話をしてみる。でも若干二名の表情を見て、それ以上続けるのはやめにした。近藤は最初真っ赤になって次に青くなった。瑠璃ちゃんは白い顔を余計に白くして下を向いている。菜々美ちゃんと私には冗談だったけど、どうやら二人には聞きたくない内容だったらしい。

「でも春日の馬鹿力には、マジぶっ飛んだ」と遠藤が言ってきた。ちょっと助かった気分。流は私に乗っかった総勢五人を全員一人でぶん投げたらしい。

最後の大泉は一回転したそうだ。大泉はいかにもお仲間っぽい友達一人と弁当を食べている。時々、こちらに視線をよこす。まだ私に向かって笑いかけてくる大泉の根性に、変な感動すら覚えた。腕には大きなカットバンをつけている。はみ出て見える傷は砂利で黒ずんでいた。でも悪いけど同情する気にはなれない。あの這いまわる手を思い出すと、大泉には嫌悪しか感じられない。

私はお弁当を食べ終えた。購買もあるけどなるべく安く済ませるために、お弁当を作ることにしている。

兄は考古学の研究者で大学教授の助手をしている。ろくに帰ってこれない激務だが、給料はかなり心もとない。私もアルバイトしようと言ったが、兄は断固として反対した。部活をしたり友達と遊んだりしなさい、と兄は言う。今でしか味わえない事を思い切りやりなさい、と。

本当は兄が何を心配しているのか分かっている。ホルモンの影響なのか、元々の体質なのか、私は体調が崩れやすい。治療を嫌がって薬をのまないから、いつどうなるか分からないので兄は不安なのだ。迷惑掛けて申し訳ないと思うけど、薬を飲むのは怖かった。実は薬も身体に悪い影響を与えると分かっているから。

〝これだ〟という答えなど、この世界に存在するのだろうか。〝これが正しい〟、と分かったらどんなに楽か。

「普通」という言葉が私にはとてつもなく大きく感じられる。普通でいられることは奇跡に近い幸運だ。普通になれるのなら、持っている物すべてを投げ出してもいい。

でも本当に「普通」と呼べる人は、どこに存在するのだろう……。



午後からの時間は無難に過ぎた。

流は掃除の時間にいつの間にか戻って来ていて、五、六時間目の授業もさりげなくフォローしてくれた。休み時間には仲良し五人組が話しかけてきたので、流と話す時間を取れなかった。私を見て驚いた理由を聞きたかったけど、みんなの前でその話をしたくなかった。

やっと全部の授業が終わった。長くて……でもあっという間だった気がする。鞄に荷物を突っ込んでいると「脚は痛くない?」と艶やかな声が聞いてきた。

「うん、全然平気。なんか信じらんないけど思ったよりひどくなかったみたい」と言って流を見る。

流の顔は、私の言葉がほんとかどうか推量している表情。しばらく私を見てから「うん」と言って笑った。「大丈夫そうだな」と呟く。心から安心した様に見えた。

「今日はほんとに……色々迷惑かけてごめんね」と伝えた。流がいなかったら私の転校初日目は惨憺たるものだったろう。感謝してもしきれないけど、それ以上の言葉が思いつかなかった。

「蘭はぼくに、いくらでも迷惑かけていい」と流が言った。

他の奴に言われたら、何言ってんの? コイツ、と思うとこだけど、流にいわれると嬉しくてカッと頬が赤くなってしまう。

「帰り送るよ」と言いながら流が立ちあがった。さすがにそこまで迷惑を掛けられないと思って断ろうとしたけど「まだ貧血も心配だし」ときっぱり言って反論を許さない。

流と帰れば、途中だった話の続きが聞ける……と思って私も立ちあがった時、「春日、俺達帰れなくなったぞ」と言う声が聞こえた。声の主は憮然とした顔でこちらを見ている。同じクラスだけど、まだ名前を覚えていないやつ。

「立川が俺達生活委員にやらせたい仕事があるってさ」と言ってくる。なぜだか分からないけど、こいつは流の事が苦手……と言うか嫌いらしい。あからさまに敵意をむき出しにしているように感じた。「わかった。後から行くよ」と返す流の言葉が終わらない内に、一人でさっさと教室を出て行った。

困ったように、流は私を見た。自分が高校生で、しかも生活委員なんてやっていることを呪ってでもいる表情。

「ぼくなら大丈夫」と私は急いで言った。「家もそんなに遠くないし。体調も戻ったよ」と、両腕を上げて力瘤を作る。流は思案するように私を見つめ、最後は諦めたようにため息をついた。

「じゃあ、また明日」と言って柔らかに笑う。「うん、ばいばい」と返事した。明日また、流に会える。〝明日〟という日がこんなに楽しみで待ち遠しいものになったのは久しぶりだった。

流は私とすれ違いざま、ポンと私の頭に左手を乗せて一瞬立ち止まる。流の左脇の下に私の身体がすっぽり収まる形になった。

「……ほんとに、気をつけて」と低く呟くと、手を離して行ってしまった。

私はそのまま動かなかった。振り返って、去っていく流の後ろ姿を見るのは、耐え難かった。彼の姿が見えなくなるくらいの時間をそのまま待ってから、どうにもならない寂しさと共に家路についた。