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第八話
「……大丈夫か?」
静かな声が聞こえた。意識はもどりつつあるけど、まだ半分以上、眠っている気がする。もしかして夢かもしれない。でも会話が続いているのはわかった。
「ああ、八割方治したよ。傷口は少し見えるくらいだ」
流の声が答えた。この声だけは眠ってても聞き分けられる自信がある。
「そーじゃなくてお前だよ。俺の力は必要か?」
初めて聞く声が言った。流の声ほどではないが艶っぽくて魅力的な声。「大丈夫」と流が答える。
「そうか……ピュアはお前にあまりダメージを与えないらしいな」
言ってから一拍間をおいてその声が続ける。
「──ピュアなんだろ?」
「ああ」
流が言う。その短い返事の中に深い愛情が感じられる。多分、気のせいじゃない。
「ついに見つけたな。おめでとう、と言いたいけど……」ため息が聞こえた。
「この子は──ふたなりだ」
ズキッときた。自分の身体の真実を知ってからネットで調べた時、幾度か見かけた言葉。私の事を話しているの?
「古風な言い方だな。リト」流が言った。色んな感情を押し殺している声。「でも厳密に言うと、そうじゃない」流の声が続ける。
流は知っている。私の事を……。きっと、かなり正確に。
「どっちにしても日神(ひしん)は気に入らないだろうな。最悪の場合その子を……」
リトと言う変わった名前で呼ばれた声は躊躇うように、言葉を途切らせた。「そんなことは、絶対にさせない」流の声には強い怒りが込められている。
「まぁ、そうだろうな。ピュアを見つけたら離れられなくなる。クソ真面目なお前がその子にメロメロになるのを見るのが、楽しみだよ」
クックッとリトが笑う。「俺は何があってもお前の味方だ」と最後は真剣に言った。「心強いよ」流が答えた。
その時私の額に暖かい手が置かれた。体中の力が抜けて心が落ち着くのが分かる。そのまま心地いい眠りの中に、私の意識は落ちて行った。
遠くにざわめきが聞こえて目が覚めた。
目を開けて自分がベッドに寝かされていると分かる。ドッと圧し掛かる重さと、溢れ出る血と、ぱっくり開いた傷口を思い出した。恐る恐る左脚を動かしてみる。すれたような痛みは感じるけど激痛ではない。
普通あれほど切れたら医者に縫ってもらわないとダメだろう。でもここは病院には見えない。周りはどう見ても在り来りな、学校の保健室の風景だ。何か夢……を見た気がするけど、内容はよく思い出せなかった。
よいしょ、と上半身を起こして擦れた腕を見てみた。綺麗に切れるより、砂利で擦る方がやっかいな傷になる。砂利が傷にたくさん食い込んでいたら最悪だ。でも見た限り赤く線がついているだけだった。邪魔くさい幅広のカットバンを張る必要はなさそう。良かった。
一体今は何時なの? と思って時計を探そうとした所で、「入っていい?」と言う声がカーテン越しに聞こえた。流だ。私は急いでモサモサになった髪の毛を手ですいた。
「いっ……いいよ」
どうか少しでもマシな頭に見えますように。
そっと肌色のカーテンが引かれ、流の顔が覗いた。あまりの美しさに胸が高鳴る。何度見ても、どこから見ても、損なわれる事のない美貌。
流は制服に着替えていた。腕には私の制服を抱え、手には上履きを持っている。上履きを床に置き、制服を、私がいるベッドの上に乗せると膝をついて視線を合わせてくる。
「あの……ありがとう。ごめんね」
お礼と謝罪をいっぺんに伝えた。流に対する有り難さと申し訳なさが、心の中で錯綜する。「さっきから、何度も謝ってるけど」流が遮るように言った。
「蘭は何も悪いことはしていない」
そう言うと左腕をベッドに乗せて、右手で私の左腕の赤い擦り傷にそっと触れる。
「ぼくこそ、助けられなくてごめん。もっと近くにいたら蘭の上にあいつらを乗らせるなんて、絶対にしなかった。最初から先生に出場させてもらうべきだったよ」
一言、一言、心をこめて言っているのがわかった。澄んだ薄いブラウンの瞳が、すぐ近くで私の瞳を真っ直ぐ見つめる。
なんでこんなに私を思ってくれるの? 驚きと、それ以上に激しい喜びとで、喉が詰まって言葉が出ない。パタッと音がした。ベッドの上掛け布団に水のシミが広がった。
私の……涙、だった。
「どこか痛む?」あせって流が問いかける。これ以上心配させちゃいけない。私は腕でグイッと涙をぬぐった。「だいじょぶ」と答えてニコッと笑って見せる。
途端に流の瞳は甘さを増し、唇は私の大好きな微笑の形を取った。思わずほうけてしまいそうになるけど、なんとか自分を今置かれている立場に引き戻す。
「今、何時? もしかして放課後?」
どうしよう。転校そうそうほとんどの時間を保健室で過ごしてしまったのだろうか。
「いや、今は四限目が始まる前の休み時間。体育の間寝てただけだよ」
流の言葉を聞いて力が抜ける。良かった。意識を失っていた時間は思ったより短かったらしい。
「それじゃ着替えなきゃ」と言ってから制服に手を伸ばし、ちらっと流を見てすぐに視線をはずした。
「あの……遅れちゃうから先に行ってて。制服とか、持ってきてくれてありがとう」
言ってから下を向いた。自分の頬が赤く染まっているのが分かる。「そこで待ってるよ」と言って流はさっとカーテンの外に出た。見えないようにぴったり閉めてくれる。
私はソッコーで着替えた。左脚を見ると包帯が巻いてある。でも痛みはほとんど感じなかった。上履きを履いて立ちあがっても大丈夫。今すぐにでも走れそう。
ガラッと保健室のドアが開いて「楠本、大丈夫か?」と言う声がした。立川先生だ。私は体操服を抱えてカーテンを開けた。保健の先生はいない。一体なにしてるんだろう。手当ても流がしてくれたのかな。
「大丈夫です。ご迷惑かけてスミマセン」と先生に言った。流は腕を組んで先生の隣に立っている。先生より十センチは背が高い。
「歩けるのか」とビックリしたように先生が言った。「傷口を見たら縫わなきゃならないと思ったんだけどな。……春日が、自分が手当てしたから平気だって言うから授業を続けたんだが……」と、ちらっと流を見る。教師にとって生徒の怪我は重大だ。出来れば病院沙汰にはしたくなかったのだろう。
「春日くんが、名医で良かったです」と言ってみる。流がクスッと笑った。先生もやっと安心したようだ。
「とにかく、大したこと無くて良かったよ。でもまた痛みが出たらすぐ俺に言いに来るんだぞ」
立川先生は私を気遣ってくれている。やっぱりいい人だ。やっかいなことからも逃げ出すことはしない。なかなかこんな先生はいないと思う。「先生、授業が始まります」と落ち着いた声で流が言う。
「おおっ。そうだな。でもあわてず気をつけて行けよ」と言って自分は大慌てで先生は出て行った。私達も教室に向かって歩き出す。
「ほんとに痛くない?」流が上から言った。「また〝お姫様だっこ〟しようか?」とからかうように聞いてくる。
「じょーだん」と言って流の左上腕部をパンチした。流といると自分が〝女の子、女の子〟してしまうからあえて男っぽい態度に出る。一瞬、女子として転入すればよかったと思ったけど、事実は何も変わらない。この運命に、流を巻き込むことは絶対にしたくない。
私の歩調に合わせて流は歩いてくれる。……下を向いて、涙を隠した。
けれど、私の知る由もないところで流は私の、私は流の運命に巻き込まれていた。運命は優しく……でも確実に、そして急速に、時の谷間にひそむ無謬の闇に私達を導いていたのだ──。