HV ―HandsomVoice―

第四話

「……待っててくれる?」

お礼も何もすっ飛ばして、私は奇妙なお願いをしてしまった。教室の場所が分からないわけじゃあるまいし、彼は行ってしまうと思ったけど。

「お望みならね」

そう言って彼は廊下の壁に寄り掛かった。片方の口端をあげて、困った子どもを見つめるように笑っている。なんだかとてつもなく安心して、私もふっと笑い返した。「ありがと」私は短く言って、トイレに向かって歩き出した。

男子トイレは誰もいなかった。個室に入って腰を下ろすと、はーっとため息が出た。誰もいない空間にいて体中の力が抜ける。用を足してズボンを上げた。流してからなんとなく下を見る。

その時、個室のドアの下の隙間から、スウッと黒い影が入ってきた。煙のような不定形な塊は、蛇のように伸びてするすると下から入ってくる。ぞっとして後ずさりすると便器に脚が当たってしまった。これ以上後ろに下がれない。 見る間に黒い塊の先端が、鎌首をもたげるように上にあがった。その中心に……。

〝目〟があった。

一つしかないそれはじっと私を見つめてくる。深い、海の底を覗いているような暗い藍(あお)だ。どうしたらいい?後ろにはさがれない。ということは……進むしかない。

私は目に向かって突進した。目の方は思いもよらなかったというように、一瞬たじろぐとシュッとドアの下に引っ込んだ。私は鍵を開けて一気にドアを開く。

──何もない。

トイレはしん、としていた。ぼやっとした影の欠片すらない。グッと両手と握りしめて両足を踏ん張って、隅から隅まで見渡してみる。少し落ち着いてくると、ほんとにあんな物を見たのか自信がなくなってきた。

そこで春日流を待たせている事を思い出した。授業ももうすぐ始まるだろう。急いで手を洗ってトイレから出る。

ドアを閉める時振り返りたい衝動に駆られたけど、やめた。ドアの隙間からあいつが覗いていたら、なりふり構わず悲鳴を上げてしまうだろう。

春日流は廊下の窓際に寄り掛かって、腕を組んで待っていた。初めて左側から髪を見た。彼の髪は左耳の上を後ろに向かって一部分だけのポニーテイルのように結び上げてある。左側頭部の、後ろの結び目が終わる所から、細い三つ編みが左肩に垂れている。かなり変わった髪型だけど、不思議と彼にはしっくり合っていた。

「待たせてごめん」

私が声をかけると彼はこちらを向いて微笑んだ。ちっとも嫌じゃないって視線を向けてくる。笑顔を見てドキドキするのに、とても、とても、安心する。今まで一度も味わったことがない感情。

「春日くんってさ……」

黙ったまま歩きだした彼に話しかけてみた。するとピッと右手の人差指を出して、「流」と言った。

「へ?」

間抜けな返事をしてしまった。

「流でいい。そのかわり君の事は……」

「蘭?」と自分を指さす。「うん、ダメ?」と聞いてくる。もちろん、ダメなわけない。

「ううん、全然。ただ……」

「何?」

ちょっと心配そうな瞳。

「トゥースっていうかと思った……」

私がボソッとつぶやくと彼は一瞬目を見張って、その後ブハッと笑いだした。

「やっぱ、春日だし?」

「そーそー」

一緒に笑いながら歩く。笑うと彼は思いがけず年相応に幼く見えた。雰囲気も態度も喋り方も、今まで年下には見えなかったのに。

笑っているとさっきの恐怖が薄れていった。あのぼやっとした影。そして目……。太ももに鳥肌が立つのが分かった。

「ところで、何?」

流の低いなめらかな声が、聞いてくる。聞きたいことはたくさんあったけどやっぱり気になるのはあのことだ。

「なんで……ぼくが隣に来た時、驚いたの?」

すっと真顔になって流は前を向いた。どう答えたらいいのか迷ってる感じ。でも次の瞬間私を見下ろし、とろけそうな微笑を浮かべる。

「それは、もちろん……」

そこで前方から女の教師が歩いてくるのが見えた。

「おっと、やばい。授業が始まる」

流がつぶやく。次の授業は英語だからどうやら英語の教師は女性らしい。私は答えが聞きたかったけど、とりあえず急いだ。転校初日から授業に遅刻したくない。なんとか先生が入ってくる前に席について、教科書を出すのに間に合った。みんなの視線を感じたけど、意識から無理に追い出す。他人を気にしすぎるのも私の悪い癖の一つだ。

「三十八ページの二段落目」

流が教えてくれる。なんでこんなに細やかに気を遣えるのだろう。誰に対してもこうなのかな。

「Hello everybody」

あまり発音の良くない英語で先生が挨拶する。英語は超苦手だ。なるべく大人しく隠れていよう。

ビクビクしている哀れな転校生を先生は追いつめるような事をせず、一度も指されずに英語の授業は終わった。次はなんだっけ? と思っていると「体操服は持ってきた?」と隣から優しい声が聞いてくる。「……うん……」と答えながらまたもや血の気が引くのを感じた。

体育! 着替えがある。

トイレと同じくらい気が重い。真新しい体操服を出して途方に暮れてしまった。覚悟してきたものの、たくさんの男子の中で着替えるのは、思ったより勇気のいることだと思い知る。

「席代わって」

突然、流が言った。私の机に流の体操服がバサッと乗る。良く分からないまま、とりあえず隣に移った。そこで気がついた。流の席は窓際の一番後ろ。じりじりした残暑の太陽を避けるためにカーテンが半分閉じてある。長身の流が私を教室の角に押し込めて、みんなから見えないようにガードしてくれたのが分かった。彼は私に背中を見せている。

流の気遣いにますます感謝して、急いで体操服に着替えた。胸や尻が大きく出ているわけではないにしても、私の身体は男にしてはラインがなめらかだ。 陸上部でトレーニングしていた頃はそれなりに筋肉がついていたけど、一年間の隠遁生活のおかげで痩せてかなり貧弱に見える。

自分の決断に後悔しても今更遅いけど、 これからトイレや着替えの度に緊張しなければならない事を考えると、卒業まで乗り切れるか……全く自信がなくなってきた。