HV

第三話

「漱石は好き?」

続けて隣の席から声が掛かる。私はきょとんとして隣に顔を向けた。話しかけてくれると思っていなかったので、少し驚いた。話題の内容は学校の教科書のこと。学校に通っていれば普通の会話なのだが、私にはかなり久しぶりの出来事なので咄嗟に返事を返せなかった。

春日流は、体半分をこちらに向けて左肘を机について、左手の甲で頭を支えながら私を見ていた。口元には微笑みを浮かべている。その甘く柔らかな微笑を、さっきの質問に答えないままぼんやり見つめてしまった。私を見返す彼の眉根が、また少し眉間による。

「ソーセキ……ああ、夏目漱石。今、そこだっけ?」

どうにか返事を返せた。馬鹿だと思われてないかな。

「そう、こころ。読んでみた?」

「もちろん、読んだよ」自信ありげに答えてみる。

「教科書で初めてだけどね」

言ってからニッと笑った。彼もにやりと笑い返してくる。「ぼくも」と彼が答えた。どうやらお互い、愛読書は文学じゃなさそうだ。

「でも意外に面白かった。すごく分かりやすくて……理解出来ない感じかな。なんでそうなるのってわめきたくなる」

私、なんで初対面の人にこんなこと喋ってるんだろ。高校生の男子の会話が夏目漱石? 高尚すぎる。ドン引きされる可能性大。

「同意見だね。何も死ななくてもって。でも、気持ちは分かるような気もする」

言い方は軽いけど、思いがけず真剣に答えてくれてびっくりした。近くの席のやつが聞き耳を立てているのがわかる。ククッと馬鹿にしたように笑う声も聞こえた。

なんとでも思え、くそったれ。

そう思ったのに、恥ずかしさと悔しさで体が縮こまる。会話を続けることも出来なくなってしまった。隣の彼にも、笑い声はもちろん聞こえていただろうけど、全然気にしてないみたい。目だけで彼を見ると、落ち着いていて相変わらず優雅だ。

私は心が狭いんだ。その上小心者ですぐ傷つく。勝手に人の話題に聞き耳を立てて、嘲笑うクラスメイトの声に反発する勇気もないし、無視する大らかさもない。自分がますますダメ人間になったような気がして、落ち込んで下を向いた。

「気にしないで」

そっと囁くなめらかな声が聞こえた。また私はその声に反応する。今度は、ほあっと身体が温まる。自分に集まる不特定多数の視線を感じた。またバカにする奴がいるだろう。それでも優しい声に、隣を見ずにはいられない。

やっと彼を見返した私の瞳は、きっと涙ぐんでいたはず。私を見る彼の眼は、気遣わしげでどこまでも甘い。落ち込む私を慰めたくてたまらないって感じ……。そう、まるで今すぐ──

だめっ。何考えてるの!

突然心に浮かんだ言葉を、私は必死で打ち消した。まさか……、まさかそんなわけないじゃない。私は「男子」だし、ここは教室の中。しかも、もう少しで授業が始まる時間。

絶対思い違いだ。こんなに多くの人がいる場所で、彼が私を──〝抱きしめたい〟と思うはずがない。

妄想もここまでくると病気かも。私はこれ以上、自分が変な想像に走らないように視線を前に戻した。

私の体はそれだって難題を抱えている。後は静かに死ぬだけ。希望も願望も持ったって捨てるしかないのに。やっぱり復学なんてやめとけばよかった。

私の思考はどんどん飛躍していく。遂には家に逃げ帰りたくなってきた。でもそんな無責任なことは出来ない。

いつの間にか授業が始まっていた。国語の教師のしわがれた声を私は必死で頭に刻み込んでいく。ちゃんとノートを取って、先生が何に力を入れているか聞き分けなきゃ。少しでもいい成績をとることが、私を引き取ってくれたお兄ちゃんに対する恩返しになると思うから。

たった一人、私を理解してくれたお兄ちゃんへの──。




長い一時間目が、やっと終わった。授業内容を書きとったノートを見て、自分で書いたはずの文字が解読出来なくてウンザリした。まだ授業のリズムが掴めてない。ずっと一人で部屋に閉じこもって、あまり他人と接することなく一年間過ごしてきたから、教室の中の人いきれに頭が痛くなってきた。

それにまずいことに……トイレに行きたい。トイレのことにはずっと頭を悩ませてきた。男子トイレなんだよね、用を足すのは。

私は立って出来ないから個室に入らなくてはならない。別に普通に入ればいいのだろうけど、嫌な記憶が蘇る。中学のころ個室に入った男子をお前ウ○コだろー、といつまでも馬鹿にしていた奴がいた。女子が騒ぐと余計調子に乗って囃し立てる。まさか高校生になってまでそんなことしないとは思うけど……。

「ちょっと付き合ってくれない?」

ゾクッとするほど艶やかな声が話しかけてくる。隣を見ると春日流の迫力ある綺麗な顔がこちらを向いていた。〝カッコイイ〟とか〝イケメン〟なんて在り来たりな言葉では追いつかない。〝美しい〟としか言いようがない気がする。私はまたポカンと彼を見た。

「どこに?」

「いいから、来て」

スッと立ち上がった彼は思った以上に背が高い。百八十センチは優に超えている。私はガタガタ椅子を揺らしながら何とか立ち上がった。また、みんながこちらを見ているのがわかる。うっそーと言う高い声が聞こえた。女の子の声だ。うちのクラスにも少ないけど女子がいるらしい。

春日流は教室のドアを開けて待っている。みんなの視線などへのかっぱってとこ。私は急いで彼のところへ行った。「こっち」と言いながら人差指で廊下の右側を示す。

頭の中はクエスチョンマークだったけど素直について行った。彼には引力があるみたい。二クラス分、廊下を進んだ右側に下に降りる階段がある。私のクラスは二階なので、そのまま一階に下りて真っ直ぐ進む。

休み時間だから、教室移動する生徒や廊下でふざけている生徒達とすれ違って行く。彼は黙って歩いて行くので私も後をついて行った。体育館に続く渡り廊下が見える。その手前を右に曲がると人影のない廊下があった。

その一番奥に……トイレがある。

「ここはあまり、利用する人がいないんだ」

曲がり角を少し曲がった所で立ち止まり、彼が言った。ちょっと決まり悪そうに、囁くように言う。なんで分かったの? と、口に出掛かったけど喉の奥で止めた。

春日流の表情が、私の秘密を知ってしまって、 知っている事を申し訳なく思っているような……自分を責めてるような顔に見えたから。