HV ―HandsomVoice―

第二話

「楠本は確かインハイ目指してたんだよな。うちにも陸上部があるぞ。やってみないか?」

教室まで一緒に歩きながら立川先生が聞いてきた。

確かに私はインターハイを目指していた。私は中学の時から、ずっと走り高跳びをやっていた。毎日、空気を吸うように、水を飲むように練習を繰り返してきた。当たり前の事として。 苦しいけど大好きだったトレーニング。あの躍動感。そして充実感……。

青い空を見上げながらバーを飛び越え、マットに向かって落ちていく感覚が突然鮮明に蘇る。〝あの事〟が発覚してから、心の奥深くしまいこんだはずの記憶。

私は目を閉じると、鮮やかな空の青をもう一度強く胸に押し込んだ。二度と追えない夢は、青い残骸を残してどこかに逃げていく。悔しさよりも、虚しさのにじむ声で私は先生の質問に答えた。

「……でもそれは以前なら通用した記録なので……。今は男子だし、全然だめです。ブランクも長いし──」

「うん。でもスポーツが好きだろ? 何も大会に出ることがすべてじゃない。もしやってみたいという気持ちがあるなら、楽しむためだけにやるのもいいと思うよ、俺は」

そうは思う。もう一度跳べたら……。でも大会を目指さないなら何のために練習する? 目標は? 意義は?

私の表情が曇ったのを見て、先生はそれ以上言ってこなかった。やっぱ、いい人かも。こんな希望のない人生にもいい人がいるとホッとする。つかのまの休息。

ガラッと教室のドアを先生が開けた。さあ、戦いの始まりだ。好奇の目。劣等感。普通のふりをする会話。単調な授業。うんざりする勉強。何もかもが懐かしく、そして新しい。

先生が馬鹿でかい字で、私の名前を黒板に書く。よろしくお願いします……とかなんとか、もごもご言って、急いで示された席に向かった。 第一関門突破。早く自分の席に埋もれて一つの点になりたい。

なんとなく、みんなの視線が追いかけてくるのがわかる。私の席は窓際から二列目の一番後ろだ。有難い。

カタンと椅子をひいて、席に座ろうとした瞬間、隣でハッと息を飲むのが聞こえた。思わず隣を見る。そして私も止まって目を見張ってしまった。

大きく見開いた目を、私に向ける隣の席の男子は──そう、信じられないくらい美しかったから。

お互い一瞬止まってしまったけど、先生が出席を取り始めたので私は急いで座った。 もう一度隣を見てみる。 恥ずかしかったけど、なんであんなに驚いているのか気になったし……。

何より芸能人顔負けの美しさを持つ人間が、自分の隣に座っているのが純粋に不思議でならなかった。 もう一度彼が本物かどうか、自分の見間違いじゃないか確かめたかった。

思ったより普通かもしれないじゃない? 一瞬しか見てないし。

でもそっと窺うように見てみると、やっぱり全然見間違いなんかじゃないことがわかった。

透けるような白い肌。漆黒の髪。こちら側からは良く分からないけど、左側を細い三つ編みにしているらしい。全体的には短めなのに、左の肩に編んだ髪がかかっているのが見える。

髪に反して瞳は薄いブラウン。切れ長で、あり得ないほどの長いまつげに縁どられている。 すんなりした手足を、学校の決まったスペース、自分の机と椅子のある空間になんとか押し込めている。

でも同時にちっとも無理している感じはしない。優雅にすら見える。そしてまだ、私の方に驚愕の視線を向けてくる。

「春日 流(かすが りゅう)」

「はい」

反射的に隣の彼が出席を取る先生に返事をした。その短い返事の声を聞いて私はまた、止まってしまった。

はんさむ、ぼいす。

お腹に響くような、でも低すぎない優しいバリトン。体中に電気が走る。ビリッとくる声だ。もっともっと聞きたい。

きっと私は、欲望丸出しの表情をしていたのだろう。ちょっと彼が眉根を寄せた。恥ずかしさのあまり急いでそっぽを向く。

「教科書、ある?」

あの声が聞いてくる。どうしよう、体が熱い。私どうしちゃったの? 緊張が極限に来て、きっと頭がおかしくなってるんだ。となりに顔を向けるのが躊躇われる。

だって多分、真っ赤になってるもの。私の肌は色素が薄いから赤面すると普通より目立つ。こんな顔で、あの迫力のある美形に向き合わなくちゃならないの? 拷問に近い。

「うん……持ってる。ありがとう」

何とか答えてまたそっと視線を向けてみる。 こちらを見る彼の視線には、もう驚きの色はなかった。 でも私はさっき以上に固まってしまった。何故なら彼が──微笑んでいたから。

「ぼくは春日流。わからないことがあったら何でも聞いて」

ニコッと笑うと自分の教科書の準備を始めた。長いまつげがライトブラウンの瞳を優しくふさぎ、影を落としている。さらりとした態度がかえって彼の雰囲気を甘やかなものにしていた。

自分の心臓が一年前の病院で医者の話を聞いた時と同じくらい、ドクドク暴れてるのがわかる。 あの時と違うのは、病院では血の気が引いて血液がどこに流れて消えて行くんだろう、 と思うくらい体が冷えた気がしたのに、今は全く逆で、 指の先の毛細血管まで血がたぎるのが感じられる。

とりあえず落ち着かなきゃ、と教科書をさがしてみる。一限目は国語だ。今、何ページだろう。一応予習……復習? してきたけどさっぱり自信がない。漢字覚えてるかな。

「四十七ページの頭からだよ」

あの声が教えてくれる。出席を取った立川先生はすでにいなくて、国語の教師が来るまでの短い時間に、生徒達はざわめいている。転校生に興味しんしんだけど、話しかけてくる者はいない。隣の彼以外は。

誰かが「女みたいだよな」と囁いているのが分かる。聞こえるように言ってるのかな。

新しいクラスメイトのあからさまな囁きのせいで、血の気が引いて寒くなる。 それなのに隣の春日流の声には、ドキドキして体が熱くなる。 私はそんな相反することを、同時にやってのけた。

女みたいのは当たり前だ。言わせておけばいい。自分に無理矢理そう言い聞かせたけど、あまり平常心を保つ効果はなかった。

私は一瞬遅れて、ページ数を教えてくれた春日流に「ありがとう……」と返事をした。