HV ―HandsomVoice―

第一話

長い坂を登ると正門が見えてきた。

正面にはえんじ色のレンガ造りの時計塔が聳え立っている。時計塔が張り付いている後ろの校舎はいかにも〝普通〟の学校だ。冷たくてつまらないコンクリートの校舎が、レンガの色のおかげでほんの少し優しく慕わしく見える。

はあ、と私はため息をついた。時計塔は気に入ったけれど、それでこの憂鬱な気分が帳消しになるわけじゃない。

学校は久しぶりだ。しかも今は九月の上旬。夏休みが終わって数日たった中途半端な時期に、転校生として入っていくのに楽しい気分になれるはずがない。

正面玄関に着いた。人気はなく閑散としている。自分の靴箱の場所も分からないし、とりあえず上履きを出して外靴を仕舞った。鞄を抱えて靴を入れた袋をガサガサいわせながら廊下を歩いて行く。

職員室はどこだろう。転入試験の時は特別教室だった。試験の時に職員室の場所を確認しておくべきだった、と思ったけどもう遅い。

躊躇いながらも、そのまま適当に廊下を歩いてみる。私は怖がりな癖に自分のあてずっぽうな勘に頼る、向う見ずなところがある。悪い癖だ。 案の定自分のいる場所が良くわからなくなってきた。

急に不安になって立ち止まる。男は空間認識が鋭いはずなんだけどなぁ。損した気分。こういうところは以前と全然変わらない。

ちょっと早く来たのですれ違う生徒は少ない。だから戸惑って立ち止まっている私をじっと見つめている視線には、すぐに気がついた。廊下の曲がり角の向こうから体半分覗かせてこちらを見ている。思わず私もそっちを見る。

私と同じ、男子の制服を着ている。目が合うとパッと顔を逸らしておどおどと視線を動かす。

私より少し背が低いずんぐりした小太りの、にきびだけ目立つ印象の薄い顔の男の子。きょときょとしながらもその顔が赤黒く染まっていくのがわかった。彼は下を向いてから、思い切ったように顔をこちらに向ける。でも目は合わせてこない。

「も……もしかして、転校生?」

つかえながら出てきた声は、どっしりした感じの見た目に合わない、高っ調子な声音だった。赤く染まった顔のニキビの間を汗がつたい落ちて行くのが見える。

「えっと……そうです。職員室がわからなくて……」

とりあえず敬語にしておいた。私は一応一年生だし、相手は年上の可能性がある。

「職員室は二号棟の一階だよ。なんだったら俺が案内してもいいけど……」

「……ん、と、教えてもらえれば自分で行きます。すみません」

私の声は親切な彼よりもっと高い。なんだか情けない。

「いいよ、いいよ。たいして時間かかんないし。一緒に行くよ」

私の弱気な態度に気を良くしたのか、急に親しげに近づいてくる。有難いけどちょっと嫌な感じがした。小さな目がねめつけるように私を見る。全身を舐めまわすような視線。

「でも……大丈夫です」

「こっち、こっち」

彼は突然、私の右手首を掴んで引っ張った。急いで手を引っ込めたかったけど、失礼かなと思って相手の歩調に合わせてついて行く。

マジで泣きたくなってきた。

曲がり角を真っ直ぐ行った突きあたりに、二号棟へ向かう渡り廊下があった。そこを渡ってまた左に曲がる。

高校は転入してくる生徒が少ないからこんな分かりにくくなってるの? 学校の造りのややこしさと、いきなり変な案内人に腕を引かれてしまったことに、うらみがましい思いが募る。前を向くと彼の姿が目に入ってしまうので、下を向いて自分のつま先を見つめた。上履きは先っちょが青で、よくあるタイプの物だ。

「……こんな時期に転校してくるなんて珍しいよね。夏休みを挟んでるから、みんな転校生が来ること知らないし、ビックリするよ。おたくみたいなカワイイ男子が入ったら、女子が大騒ぎするだろうな。この学校は元々女子が少ないし……ますます彼女ができなくなっちゃうよ」

ニキビ君は名前も名乗らず、一人でペラペラしゃべっている。なんとか手を離してもらえたことに安堵して、適当に相槌を打ちながら職員室までの短くて長い道のりを耐える。〝職員室〟と書かれた横札がやっと見えた。
たどりついた。よかった。

「ありがとうございました。助かりましたっ」

なるべく男っぽく、体育会系風に言ってみる。悪いけどねちこいニキビ君の視線と喋り方に、我慢ができなくなっていた。断ち切るように言い放って、後ろを向いてそのまま職員室のドアを開ける。

「……同じクラスになれるといいな……」

ボソッとつぶやく声を背に、目を合わせずにお辞儀だけしてドアを閉めた。
同じクラス? 勘弁してよ。

担任はそれこそ体育会系の、立川という男の先生だった。四十代半ばくらいに見える。

「あー、君が楠本蘭(くすもとらん)くんか。ご両親から……と言うか、今一緒に住んでるのはお兄さんだね? 彼から話を聞いてるよ」

先生は、一瞬じっと私を見つめた。ニキビ君と違って好奇心丸出しではない。どちらかというと気遣わしげで腫れものに触るような視線。どっちにしても私にとって、いい感じはしない。

「はい。すみません、ややこしい事情で。わた……ぼくも何度聞いても理解出来なくて……」

口ごもった私を見て、ふっと先生の視線が和らぐ。悪い人じゃなさそうだ。

「まあ人には色々あるからな。珍しいことではあるが。俺に出来ることがあったら何でも相談してくれ。できる限り力になるから遠慮するんじゃないぞ」

立川先生の言葉は暖かく、心がこもっていた。浅黒い肌に笑った口から歯が光る。どっかの栄養ドリンクのCMを見てるみたいで、思わず私も笑ってしまった。ファイトーとか言い出しそう。私が笑ったのを見て、先生も安心したようにまた笑う。

きっとこんな難しい事情の生徒を受け持つことに、少なからず不安を抱いていたのかもしれない。先生はそれ以上余計なことは言わず、教室に向かうために立ち上がった。私にプレッシャーを感じさせない、こういうさっぱりした態度にも好感が持てた。

さっきまでの恨みがましい気分が少し軽くなる。私は先生に続いて、職員室から廊下に出た。